2004年03月29日

野生の力

京都御苑の東には、枝打ちなどの手入れがされない特別な区域がある。

今日は暖かかった。上着がいらない位で、東の空には大きな積雲。まるで初夏のような一日だった。春休みに入っていたので、観光客も沢山訪れている。

今日は遠回りで散歩をしたのだが、ちょっと見ないうちに、至る所で桜は満開になっていた。私がいつも通る所の桜は、枝垂れ桜以外はほとんど花を咲かせていないのだが、京都御苑の他の区域では既に咲き乱れていた。梅や桃は咲く時期に差があまりないが、桜はその差が大きいようだ。児童公園の周りには桜や桃が沢山植えられていて、まさに花園だ。この公園がこれほど人で溢れるのは、この時期ぐらいであろう。どうせなら、季節毎に花が咲くように、もっと色々な花を植えれば良いと思うのだが。

今日は京都御苑の東にある、枝打ちをしないで極力放置し、樹木の生えるがままにされている区域を歩いてみた。そこには勿論整備された道などない。あるのは獣道のような、足で踏み固められた跡だけである。そこを歩くと、世界は一変した。

普段の我々、特に都会に住む我々は、必ず鋪装された道路を通る。鋪装されていない所を通る事自体が至難の技である。獣道を通ると、自分の足下にまで命が広がっている。名も知らない草花や昆虫。枯葉も命の循環の一形態。町中や家の中で昆虫や生命を数多く発見するのは異常な事のようだが、ここでは当たり前の事。

我々は鋪装された道という隔離装置によって、生命と切り離された生活を送っているが、ここにはそんな壁は存在しない。自分も自然の中の生命の一つであり、他の生命と比べても同等の存在であるという事がすんなり理解出来る。除菌、除菌と、必要以上に自然を排除しようとする現代社会が実に奇妙なものに思える。

この区域の樹木は明らかに他の区域とは違う生命力の強さがある。自ら生きよう、生命を輝かそうという意欲のようなものが、より強く感じられる。また、ここに生えている樹木は、どの区域のものよりも個性的であるように感じる。養老孟司さんが「個性は育てなくても自然に出てくるものだ」と著書の中で仰っていたが、まさにそれが表れていると思った。

個性を尊重するならば、個人の主体性を大切にし、半ば放任的にすべきなのであろう。その上で、他人に迷惑をかけないように、より潤滑に行動出来るように、幾つかのポイントを教えるだけで、社会に積極的に出すようにすれば良いのだろう。個性を授ける事は出来ない。個性はその人の経験だけが育て得るものなのだ。

人は野生を忘れてはいけない。自然を生活圏から追いやってはならない。むしろ生活圏を自然と融合させ、野生を取り戻しやすくするべきではないだろうか。この京都御苑の放置区域のような所を、もっと我々は歩いた方が良いかも知れない。その為にも、身の回りに自然を多く残しておく方が良いように思った。

Posted by ガスパーチョ at 2004年03月29日 23:59 | トラックバック
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