2004年06月22日

台風通過

この季節には珍しく、台風が近畿地方に直撃した。

近年稀に見る強い台風がやって来た。あちこちで色々被害が出たようだ。時代が変わろうと、自然の前での人類の無力さは変わらない。防災対策で自然の脅威を克服したかに思えるが、実の所、逃げ方が上手くなったというだけに過ぎない。

台風によって大雨と強風がもたらされる。人間界では崖崩れで線路が分断されたり電線が切断されたりと、何かと大変だ。昨日は人間達には色々な被害が出て大騒ぎの一日だったが、やはり京都御苑の植物達はただそこに佇んでいるだけ。さすがに動物達は避難したり隠れたり、不自由な一日だったようだが。自然界でも多くの命が失われたりして大変なのだが、一概に悪い事ばかりが起こるのではない。

自然全体の視点で考えると、これもまた自然の完璧な浄化作用であるとも捉えられる。大風は滞った空気をリフレッシュし、種を遠くまで運び、使わなくなった枝を間伐してくれる。大雨は土を運び、動物の死体や植物の枯葉を運んで川や海に栄養をもたらし、汚れた葉っぱも洗い流して綺麗にしてくれる。

そう考えると、人間が一般的にネガティブに捉える事象も、さほど悪い事でもない。我々人類は、悪い事を寄せつけまいとして自然と交わる事を拒否しているが、自然界には元々、良い事も悪い事もないのだ。

我々がどうあがいたところで、自然界の掟からは逃れられない。いや、掟ではない。自然界のからくりなのだ。生物は死ぬのではなく、全く別の役割に、存在に変質するだけなのである。死んで行く生物は、言わば自然の神様に呼ばれ、別の仕事をしに行くのである。そうして命は次のものたちに繋がって行く。

命と命が混ざり合い、別れながら全ての生物は生きて来た。その間に途切れは一切ない。形を変えるのが「死」であるならば、我々は絶えず死に続けている事になる。変化が「成長」であり「生」であるならば、我々生物は不死身である。生命の総体としての我々は不死身だが、「個性」からの視点では有限の命だ。個性というものは一瞬で変質する。昨日の私は今日の私ではないのだ。

絶えず命は流転し、形を変え続ける。物でさえも形を変え続け、流転する。元々生命は物質から生まれた。ならば生命とは物なのか?物とは生命なのか?区別・分類はあってないようなもの。全てが私で私も全て。区別・分類は便利なモノサシだが、便宜上のもの。自然界に区別・分類はない。それで殺しあう人間の何と愚かしい事か。

そして今日も、雨に濡れた木々が何事もなかったかのように佇んでいる…。

Posted by ガスパーチョ at 2004年06月22日 23:54 | トラックバック
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