2004年10月25日

黄昏れ

今日の散歩は日暮れて少しぐらいの時間になった。

黄昏れ時といのは、元々「誰そ彼」という言葉が元になったと言われているようだ。相手がいるのはわかるが、暗くて誰かわからない、そんな時間帯を指すのだという。今日の散歩の時間はまさにそれだった。

紺色の人影が向こうの方からゆらゆらと近付いて来る。近くに来てようやく、どんな格好をしてどんな年代の人物なのかがわかる。この時間が幽霊の出没や魔界への入り口が開く時間とされている理由がよくわかる。人間の認識力に隙があり、連想の想像力が働きやすく、意識を操る霊達が人間を操りやすいからだ。

はて、そんなことを書いている私は自分の意識で動いているのであろうか?誰かが私を操っているのであろうか?どこまでが私なのであろうか?この感覚・感情・思考は本当に私の物であろうか?果たして私とは何であろうか?本当の私とは誰なのであろうか?そもそも私というものはあるのであろうか?

確実なのは、今この瞬間、この世界を感覚し、判断して、何らかの決断を下しているのを認識しているという事だけだ。いや、これさえも幻想なのであろうか?江戸川乱歩の言葉を思い出す。夜の夢こそ真の世界だと彼はいう。現実も夢の世界と体して変わらないのかも知れない。

はて、以前もこのような記事を書いたであろうか?書いたような気がするが、定かではない。人間の記憶というものは曖昧だ。想像もなかなかハッキリとは出来ないものだ。はっきりするのは現実のこの瞬間だけ。いや、今この瞬間さえ、完全に認識しているとは限らない。神の目からすれば人間の認識力など薄っぺらなのだろうか。

だとすると、どんなに頑張っても辿り着けない領域がこの世界にはある。いや、頑張るから領域が広がって、辺境が遠のくのだろうか?どこまでいっても無限の世界が広がり続け、終わる事のない成長と旅があるだけなのか?

…いつ考えても思考は宇宙を脱し、果てのない世界へと向かってしまう。収集がつかない。考えても無駄なのであろうか?こうしてまた考えてしまう。まだまだ人間としての成長が足りないから、魂が心に辺境を求めさせて、成長させようとしているのだろうか?

Posted by ガスパーチョ at 2004年10月25日 21:35 | トラックバック
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