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2004年11月13日

ルールと思いやり

この世は全てが繋がっている。単独で存在しているものなどあり得ない。単独で行動しようとも、その影響は必ず他に影響するものである。その逆もまた真である。InputとOutputがひっきりなしに起こるのがこの世界である。そこで貴方がどのような選択をするかが貴方の人生であり、その選択さえ、関係するものに何らかの影響を与える。関係を脱する事が不可能だからこそ、また人知に限界があるからこそ、共通の行動指針=ルールが必要となる。

貴方が何か決断すれば、それだけで変化が起こり、何らかの影響を発生させるという事は、「俺の勝手だ、他人に迷惑はかけない」などという言い訳が無効であるという事だ。そんな状態などあり得ない。人は、その行動に対して、必ず責任があるという事だ。外野から文句を垂れたり悪口を言うだけでも何らかの影響を与える事となる。そして何らかのレスポンスが返って来るのだ。

究極の神でもないと真に正しい事など解るはずもない、だからやってみなければ解らない、そういう部分も確かにある。だからと言って行動に責任がなくなる訳ではない。この世界は全て何らかの形で繋がっているのだから、必ず何らかの影響を与える事になる。だから、行動を起こすに際しては結果を予測し、責任を持って動きたいものだ。

究極の神でもないのに他人にルールを押し付けられるのは御免だと言いたい気持があるかも知れないが、安易にそのルールを否定するのはとても危険だ。大抵のルールは神や権力者からの命令ではない。何らかの意図を持って仲間同士で取り決めた行動指針だ。まずそのルールの存在する理由を知る事が、貴方が最初にする事だ。

ルールに問題があるならば、率直にその問題についての改善策を語り合えば良い。守れない正当な理由があるならば、これも話し合って調整すれば良い。そのルールが権力者のエゴを満たす為のものであるとわかったならば、拒否して抗議をすれば良い。ルールと束縛を履き違えて、くれぐれも盗んだバイクで走ったりしないように。

どんなルールにも理由がある。どんな形にせよ、そこには何らかの愛が籠っているものがほとんどだ。束縛でさえも、形は歪んでいるが愛情表現の表れの一つである場合が多い。自由・自己の実現をあまり強く求めると、執着となり、周りが見えなくなる。ルールと束縛を履き違える勘違いも、その執着が周りを見えなくしている影響で起こりやすい。自由・自己の実現を求める意識も重要だが、周りへの思いやり・愛を忘れず、しっかり覚えておこう。

関係性を潤滑にするには愛・思いやりが一番の特効薬だ。愛・思いやりを心に抱いていれば、ルールと束縛を履き違えるような事はほとんどしないだろう。愛・思いやりを基礎にして、その上で自由・自己の実現をするように心掛けよう。この世界ではどんな行動もとれるようになっているが、それで困るのも喜ぶのも貴方次第である。周囲への影響は忘れないでおこう。

今回の文章は、koyoさんのblog『∽NEPO(Liaison Team)』の記事「正しさ」から影響を受けて執筆した。この記事では、「正しい事などわかりっこないから思ったように行動しよう」という安易な結論付けに警鐘を鳴らしている。前記の理屈は、案ずるより産むが易しという事を言いたいのかも知れないが、この言葉だけでは周囲への視点がない。この言葉の前に大前提であるルールや周りへの思いやりに気をつけたいものだ。

カテゴリー:心と魂の奥からの声 | 執筆: ガスパーチョ
18:09に公開 | 記事の冒頭へ戻る | トラックバック (0)
Comments

はじめまして。こんにちは。
突然ですが、人はその行動に対して責任があり、他に何らかの影響を与え、何らかのレスポンスが返って来ることをご承知の上で、コメントさせていただきます。
ルール=行動指針とありますが、「行動様式」なのではないでしょうか。ここで、言いたい事は、「語の定義」やその用法についていくらかでも考えを巡らすなら、少なくともページの上にある注意の箇条がひとつは減る、という他に、言説に矛盾や曖昧さを含まないようになるだろうということです。
例えば、やってみなければ解らないことを行動に移す際に、結果を予測出来るのであれば、やってみないと解らないことなど無いように思われますし、まして、「他」、つまり、「この世界で繋がってる全てのもの」に与える影響まで考慮するのであれば、「ルール」が必要な理由のひとつである、「人知の限界」とは、はたしていかなる範囲に留まるのでしょうか。それこそ「究極の神」の域なのではないでしょうか。
また、他に気になる点として、「この世界ではどんな行動もとれるようになっている」とは、原理上の話ですか、「ルール」の適用範囲内での話ですか。
さらに、自由・自己の実現と併記せれてますが、これらは同期に達成されるものなのでしょうか。
また、自己の実現とはどの状態を述べるのか。それによっては、「自由・自己の実現の前に、愛・思いやりを基礎にして」とありますが、愛を、仮に人間の属性としての本能とでもして措いておき、はたして、自己の実現以前に「思い遣る」ことが出来るのかどうかも議論の余地があると思われます。等々。

このコメントでは、反論や議論を挑むといった気は全然なく、何の気無しにリンクからリンクへとサイト閲覧していて、自分自身、「思いやり」についてある確信を持っているので、このブログのこの記事に気を惹かれて読んでみて、思ったことを素直に述べさせていただきました。
「思いやり」についてのある確信にもし興味を持たれたら、ブログへのお越しをお待ちしています。
それでは、失礼します。

Posted by: Die-in-blue at 2004年12月03日 15:30

Die-in-blueさんはじめまして。blogをお読み下さいまして有り難うございます。

私自身まだDie-in-blueさんほど正確に言葉を操れるまでには至っておりません。ですのでDie-in-blueさんの仰るような、高い論理性を持った正確な分析は、非常に良い勉強になります。様々なご指摘有り難うございます。

まずページ上の注意については、私の言葉足らずや表現の稚拙さによって誤解を招いている所があると思いましたので、よりハッキリと意図が伝わるように修正させていただきました。

ルール=「行動指針」ではなく「行動様式」ではないか、というご質問ですが、これはどちらでも問題ないと思われます。大辞林の定義に従いますと、指針は「取るべき態度や進むべき方向を示す方針」で、様式は「同類のものの間に共通の、一定の形式・やり方」とあります。ルールは全て何らかの(暗黙の了解であれ会議で決定されたものであれ)状態を達成する為に用意されます(喧嘩をしない為や損害を少なくする為など)。様式という表現では、適切な行動・作法を繰り返した結果行き着いたものという完成されたようなニュアンスがありますが、ここで述べているルールは、未完のもの・暫定的なものも含めておりますので、「行動指針」と表現する方が適切ではないかと私は思います。

「やってみなければ解らないことを行動に移す際に、結果を予測出来るのであれば、やってみないと解らないことなど無いように思われます」とおっしゃいますが、私は「結果の全ては予測出来る」などとは書いておりません。予測出来るものは出来る限り予測し、出来ない部分については不測の事態がある事を覚悟しておけばよいのです。世の中には予想出来るものと予想出来ないものがあるのは貴方もご存知でしょう。認識力・思考力などが高い人もいれば低い人もいますので、その範囲は人それぞれですが。

「この世界で繋がってる全てのもの」に与える影響まで考慮するのであれば、「ルール」が必要な理由のひとつである、「人知の限界」とは、はたしていかなる範囲に留まるのでしょうか、との質問ですが、ここでいう「人知の限界」は、個人の理解の範囲と全人類の理解の範囲の両方の意味で用いております(使い方がおかしければ御免なさい)。どちらの意味であれ、ここからここまでと範囲を決められるようなものではないと思います。自分が、あるいは組織が想像出来得る限りにおいての影響を考慮すれば良いのであって、何から何まで予想しようとしても無理な話です。

「この世界ではどんな行動もとれるようになっている」というのは、原理上の話です。首を吊ろうが空を飛ぼうが勝手ですが、どんな行動をとっても良いと言っている訳ではありません。人を意味もなく殴れば恨まれます。恨まれれば仕返しをされたり何か邪魔をされたりする確率が高まります。生活・行動を遅滞なく進めたければ、そのようなリスクは避けなければなりません。そこで人を殴るのはいけないというルールが発生または受け入れざるを得なくなります。だからルールを考慮に入れる事が大事だという事です。

それから私の文章を、「語の定義」やその用法についていくらかでも考えを巡らしていると受け取られているようですが、私が書いている内容は自分のあり方、態度についてであり、語の定義やその用法について書いているつもりはありません。

言説に矛盾や曖昧さを含まないようにというのは仰る通りです。私は私のその時出来る限りの正確さで、自分の述べたい事を書いているつもりですので、矛盾や曖昧さが見受けられるならば、私の認識力・判断力がその程度だという事です。

かといって正確な認識・判断が出来るまで何もかかないのもどうかと思います。blog名の下に「極私的忘備録」と書いているように、このblogではその時その時の考えや思いつきを書いています。これを後から見直したり思い出したり考えたりして、自分の成長の肥やしにしております。ですので書く時はいつでも、言説に矛盾や曖昧さを極力含まないように注意しているつもりです。

今回Die-in-blueさんがご指摘下さったように、自分では気がつかない所を指摘して頂けるのも、文章を公開しているからこそです。有り難うございます。長くなったので自由・自己の実現などの話についてはまたの機会に書きます。

Posted by: ガスパーチョ at 2004年12月04日 14:55
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