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2005年02月15日

瞑想で今を生きる

瞑想とは、意識を100%今この瞬間に留める作業と言える。大人は多くの時間を過去の情報や未来の予測に裂いてしまい、現状の認識に欠けてしまう事が多い。それを阻止して今この瞬間に引き戻してくれるのが瞑想だ。

例えば歩く事一つを取ってみても、個人個人でかなり違う。美しいフォームで颯爽と歩く人もいれば、どたどたと身体を揺らしながら歩き、よく物にぶつかったりつまづいたりする人もいる。勿論病気や怪我で差が表れる事もあるが、そういうものがなくてもかなりの違いがある。

病気や怪我・障害の影響を差し引いても、なぜそこまで違いが出るのか。それは人が過去の経験の記憶にいかに頼っているかを示している。「これだけ歩けたらそれで良い」と妥協した時点で、人は歩き方を学ぶのを止める。その時期の違いによって歩き方に差が出る。

学ぶのを止めた時点でインプットされる情報は遮断され、過去の経験情報だけがアウトプットされる。言わば記憶の中で歩いているのと一緒になる。歩いているようで、本当には歩いていない。夢の中と一緒である。意識せずとも多少のインプットはなされているのだが、学んでいる時と比べて情報量が格段に少ない。

ここでもし学ぶのを止めなければどうだろうか。生きれば生きるほど上達し、より美しく効率的な動きとなるだろう。また、常に体験をインプットしているので、身体の年齢的変化に則した動きが身につきやすい。過去の経験情報が常に更新されて洗練されて行く。

達人が達人たる所以は、一つの物事に集中し、全力であたる事で常に経験の情報を更新しているからだ。つまり、今ここに意識を保って取り組む事をしている。そしてそれを一日中している。だから人より優れた行動となり、達人と呼ばれるようになるのだ。

もし人が完全に今ここにいられる意識で生きているならば、あらゆる動作や理解力が洗練されていく事だろう。あらゆる能力が開発され続けて行く事だろう。もしかすると二流のプロ程度の事なら何でも出来るかも知れない。物腰が優雅で美しくありながらも効率良く仕事ができる人は、今この瞬間をしっかり意識する能力が高いと見て良いだろう。聖徳太子の超人的聴力も、実はその能力が高かったが故に開発されたのかも知れない。

そうであるならば、現代人はかなりの能力を眠らせたまま、記憶の中を生きているのかも知れない。道徳や学習能力の低下が叫ばれているが、今この瞬間に意識を集中し、動作や問題を強く意識する事を訓練すれば、より効果的なのではないだろうか。大人のように過去の情報に縛られないように教育する事が重要であろう。

そうした現代の大人達の思考に潜む悪癖を直す為にも瞑想が有効だ。ニール・D・ウォルシュ氏のメルマガを日本語訳したblog『CwG Weekly』で紹介されている3つの瞑想「座ってする瞑想」「歩行瞑想」「休止瞑想」が参考になるだろう。この「歩行瞑想」や「休止瞑想」は、今ここに集中するとはどういう事かを理解する助けにもなる。この時の意識を応用して日々の生活を意識的に過ごせば新たな発見がそこかしこに出て来るであろう。これが、今を生きるという事であり、私が「子供の時間」で述べた子供の意識のあり方でもある。

カテゴリー:心と魂の奥からの声 | 執筆: ガスパーチョ
17:20に公開 | 記事の冒頭へ戻る | トラックバック (0)
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