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2006年03月22日

今を生きるとは

「今この瞬間をしっかり生きるのが大事」と言いますが、果たして今この瞬間だけに集中して生きる人々ばかりの世界になったら、どうなるんでしょうか?そもそも今を生きるとは何でしょうか?今を生きれば良いのなら、過去や未来など完全に忘れてしまえば良いのでしょうか?今だけを生きるとなると、相当ものを考えないで生きる事になるような気がするのですが、自分で考える事をやめて誰かに操られるというような危険性はないのでしょうか?確かに今を生きる事にはかなりの効果があると思うのですが、これらの疑問が湧いて来ました。そこのところはどうなのでしょうか?

君が不安になるのは良くわかる。第二次世界大戦時中の日本の仏教指導者は「今を疎かにしない」という方便によって国家の戦争行為やその原因に疑念を持つ事を避けさせていたのだから。彼等は国家からの迫害を恐れてそのような理屈のすり替えで国民を騙した。そうして物事の原因を考えさせないようにした前例がある。だからそのような不安に駆られても仕方がないだろう。

私は今を生きる事と共に、もう一つ重要な事を教えたはずだ。先入観に囚われず観察する事、これを強調して来たはずだよ。そういったものは観察すれば見抜ける。あなたの中で一番偉大で崇高な部分(つまり私だ)に注意を向けてその感覚に従えば、ちゃんと怪しいものには警告を放つし怪しくないものには安全の信号を送る。

さて、あなたの疑問に答えて行こう。今この瞬間だけに集中して生きる人々ばかりの世界になったらどうなるか…いや、その前に、今を生きるのが大事なら過去や未来は忘れていいのかという疑問から答えよう。定義をしっかりしないと話が噛み合わないからね。

そうですね。質問は明確なほど答えも明確になりますからね。

今この瞬間を大事に生きるという事は、過去や未来、思考の中で漂いながら片手間に行動しないという意味である。決して過去や未来を捨てろという意味ではない。そもそも過去や未来を意識する必要がなければ最初から意識しないような進化を遂げているし、こんな事であなたは悩まなかっただろう。今を生きるとは、過去や未来、思考を情報として正確に利用できる態度を言う。過去や未来は気にしなくても良いが、つながりを理解する為には必要な情報だ。あなた方人類は、つながりに対する理解を深める為に、この世界にいるのだ。過去や未来を忘れても構わない(実際前世や未来世は忘れている)が、不必要ではない。

今を生きると相当ものを考えないで生きる事になるのではないかという疑問だが、その見解はある程度当たっている。あなたが考え込む事はかなり減るだろう。今までが逆に、考え過ぎておかしい状態だったのだよ。考えと言うよりは妄想だね。妄想から生まれた妄想について妄想したりするような、まさに夢を見ている状態だ。無駄に思考を浪費して、混乱した社会を築き上げた。混乱の極みから抜け出すには、その逆の行動をとれば良い。無駄な妄想を考えないようになれば良い。勿論何も考えないでぼんやり生きろと言う訳ではない。この世界はあなた方自身の実験場でもある。色々な状態を創造しなさい。いや、そうしたくなるはずだ。あなた方は変化を望む。あなた方が自分達をそうデザインしたからだ。

他人に操られる危険については、先ほども述べたように観察が重要になる。そもそも今を充分に味わう生き方をするならば、今この瞬間の状態をしっかり認識する必要がある。その為におのずと観察をする事となる。今を本当に生きるならば、あなたはあなた自身の判断によって行動せざるを得ない。どんな指令・提言・助言も過去のもの=単なる情報となるのだから。瞬間瞬間、その都度状況を検証せざるを得ないのだから、当然情報も検証する事となる。その為にはどんなに信用出来る言葉も客観的に見つめ直さざるを得ない。だから今を生きても全く考えなくなるのではなく、適切な思考が行なわれて無駄な思考が減るだけの事だ。そうして充分な観察をする余裕が出来、自然に観察ができるようにもなる。

さて、今を生きる人々が増えるとどうなるか?ここまでの定義を踏まえて想像してみてごらん。

興奮状態で事件や有名人に殺到するマスコミのような現象はかなり減るでしょうね。詐欺師も商売がしづらくなるでしょう。人間関係における勘違いも相当減って、勘違いしても大事に発展しないでおさめる事が出来ますから、事件なども物凄く減るでしょう。悩み苦しむ人を見つけるのも早くなり、ストレスの解消も適切に行なわれ、心の病も相当減ります。事故も観察力や検証力が増して未然に防いだり安全対策も適切に行なわれるようになります。う〜ん、良い事ばかり思いつきますね。ただ、観察力がなく、つながりというものが認識出来ない場合は逆に酷くなるでしょうね。

そう、今を生きると言っても、全く何も考えず、脈絡のない行動をしているのでは何の意味もない。いや、逆に体に何らかの異常がないと、なかなかそのような態度をとる事は難しいだろう。人の体は関連性を認識するように出来ている。例えば一般的に用いられる意味での刹那主義的な生き方の人間でも、そこには手軽に得られる快楽という関連性を追い求める態度が見られる。この場合はその快楽を得る事に熱中し過ぎて周りが見えていないだけだ。本気で快適さを求め続けるならば、次第にその生き方の問題が見えて来るだろう。それが見えないのは、過去の快適さを思い出し、その思い出の中で生きているからだ。そして、未来に同じものを求め、未来の快楽の妄想の中で生きる。いわゆる刹那主義的生き方は、今を生きているようで、実は今を生きてはいないのだよ。いわゆる刹那主義的生き方は、快楽中毒であるに過ぎない。彼等は快楽妄想の中で生きているのだ。だからこそ、本当の意味で今を生きる事が重要なのだよ。

なるほど、いわゆる刹那主義と今を生きる事とは全く違う事なのですね。それを混同しているから最初のような疑問が湧いたのですね。本当の意味で今を生きる事の重要性がよくわかりました。ありがとうございます。

カテゴリー:神様と語り合う | 執筆: ガスパーチョ
23:53に公開 | 記事の冒頭へ戻る | トラックバック (0)
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