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焦っても仕方がない。求めた成果はその努力の仕方に応じて表れ、神様の領域で結果が決定されるのだから。焦るだけ効率が落ち、時間の無駄になる。
落ち着いても、のんびりしては駄目だ。求める成果の焦点を定め、方法や時間配分をしっかり設定しなければ、却って効率が落ち、時間の無駄になる。
あまり気張らず、構え過ぎず、それでいて気を抜かず、適度にリラックスして集中しよう。
情報は集め過ぎると邪魔になるだけだ。情報集めは貴方が思うほど重要な事ではない。勿論真実から目を逸らすのは自殺行為だから、最低限の情報は不可欠であるが。情報中毒は、貴方を不安の中に閉じ込めてしまうから注意が必要だ。
貴方にとって重要なのは、どのような態度で人生に向き合うのか、それだけである。
インターネットなどで情報集めに勤しんでいる人がいるが、それだけで一日を過ごす生活は、他人に振り回されているのと同じである。自分の時間を生きているようで、自分の時間を犠牲にしている。何故そんな事になるのであろうか?
情報を集める心理には、「真実を知りたい心」と「危険に備える為の対策をする心」が働いている。どちらも人が生きて行く上では大切なものだが、働き過ぎると心は不安になる。そこには未来に対する不安が働いており、不安が小さいままなら問題ないのだが、しばしば大きくなって行く。不安が大きくなると、次は情報が足りているのかが不安になって来る。そこでより多くの情報を集めはじめる。もっと集めておけば安心だ…そう思う心が落とし穴である。
世の中に不安はつきものだ。危険も想像を超えたところでしばしば発生する。何が起こるかを知るのは神様のみ。情報は溢れるほど存在する。情報に溺れて怖れを誤魔化すより、適切な情報のみを集めて自由な時間を過ごす方が重要である。
情報を集めるなら、自分や家族の命に関わるもの、自分の仕事に必要最小限のもの、自分達の生活に関わる最低限のもの、大まかな社会の動き、自分のライフワーク・信念に関するもの、その程度で充分だ。情報を集めるより、どう分析し、どう活かすかの方が大切である事を忘れてはならない。
貴方がどのような態度で人生を生き、どう人生と向き合うかの方が何より重要なのである。情報はその為にあるのだ。情報を主食にしてはならない。情報は人生のおつまみである。
好きな事にしろ嫌いな事にしろ、どうあがいても避けられないイベント・状況が、人生の中にしばしば用意されている。このような人生のイベントは、その性質上、神の領域に属する。神様が設定するものと考えてよい。
「結果は神の領域である」で触れた通り、結果を決めるのも神様である。神様とは、我々の人生の裏方作業をして頂いている存在なのである。裏方さん、いつもありがとう!ご苦労様です。
さしづめ我々の立場は、アドリブ演劇の役者という所だ。我々の振る舞い次第で、喜劇にもなればコントにもなり、悲劇にさえなる。現在はバイオレンスアクションドラマが流行っているようだが、貴方が演じたいのは、本当にこのような流行のドラマであろうか?
いつもしてもらう事ばかり考えていないか?答えを人に教えてもらってばかりではないか?何となく生きていると、都市機能があまりに便利なので、してもらう事が普通になり、してもらえないと不満に感じる。
果たして自分はどれだけ、他人にしてあげているだろうか?どれだけ自分の力でしているだろうか?自分でしない事によって失うものはないのだろうか?人任せでは自分の理想が満たされないのは当たり前だ。不満なら自分でやってみよう。案外楽しいぞ。
もしも自分が駄目な奴だとか、自信がないなどと思っているなら、そんな心配は無用だ。貴方は素晴らしい宝を手にしている。駄目な奴?頼りない?馬鹿?無能?失敗した?…それでも良いじゃないか。大丈夫。そこからが本当の出発点なのだから、安心して事を進めれば良い。
今いる所にも解決策はある。今ここに在るからこそ出来る事がある。失敗したからこそ見えてくる真実もある。心配するからこそ問題点を見つけ出す事が出来る。馬鹿だからこそしっかり理解する事が出来る。無能だからこそ必要な能力が開発出来る。
どんな結果になったかより、これからどんな事を始めるかが問題だ。あくまでその人の決断・行動に責任があるのであって、その結果に責任はない。結果は単なる情報だ。だから落ち込む必要は全くない。勿論これは、無責任な行動をして良い事にはならないし、結果が良ければ悪い事をしても良いという事にもならない。
今、貴方がすべき事は、結果を脇に置いて(参考にはして)、これからどうするかを決断する事だ。今まで駄目だったからこそ、数倍もしっかりと素晴らしい決断を行える情報が、あなたにはある。成功ばかりの人間よりも、実は何倍も有利な状況なのだ。
さあ、今こそ立ち上がれ!くじけるな!何度倒れても諦めるな!勝利は目前だ!!
無理はするな。たとえそれがどんなにやりたい事だとしても、無理をすると義務になってしまう。あるいは身体を壊して出来る時間が減ったり状態が悪くなったりするだけだ。ひどい場合には早死にする。
最高の集中力で作業する事と、無理をして仕事を達成する事とは、全く別のものだ。だから、仕事に支障を来す事は止めなさい。無理に徹夜するよりも、心と身体を整えなさい。故障車ではレースに出られないのと同じ事。貴方の状態をベストに保つ事が、何より一番大切だ。
貴方がする事も、相手がする事も、どちらも提案以上のものにはなり得ない。決断は、本人だけが出来るもので、他人には手を出せない。決断は、他の誰にも侵害する事の出来ない最大最高の自由である。
故に、この世に義務は存在しない。しなければならない事は何もない。が、する事は全て自分で決めるしかない。むしろ、決める事が自分の全てと言っても過言ではない。一見自由っぽくないが、貴方=決断なので、自由に決断する事こそ、自分の解放となる。
義務とは自分への強要である。自分で自分の意志を曲げ、納得しないまま行動しているのである。それでは良い仕事にはならない。たとえ社会的に「義務」と定義されるものであっても、自分の自由意志からの決断でなければ、その行動から得る実りは少ないだろう。「義務」を義務とは思わずに行動する事が大切だ。
これは義務だと考えてしまう時は、考え方を変えて、自分から行動したくなる理由を見つけてみよう。ほとんどの場合、何かあるはずだ。見つからなければ、その行動を行なう意味から考えてみよう。最終的には、するもしないも貴方の自由である事を覚えておこう。
情報は、物事を判断・分析する上で非常に役に立つ。しかし、いつまでも集めるばかりでは何の役にも立たない。情報に囚われ過ぎると、時間を浪費するだけで、考えがまとまらない。
情報を集める事も大事だが、集めない事もまた大事である。
気になる事、世の中の問題は、山ほどある。しかし人間の活動範囲は限られている。情報を無視するのは危険だが、ある程度は選ばなくてはならない。気になるものは人それぞれ。自分の気になる事の主要なものを気にして、あとは人に任せよう。人の性格や興味というものは、実に多様多彩なものなのだから。
必要になった時、その都度集めれば良い。そこで人が集めたりせず、気になるようだったら自分が集めて分析すれば良い。自分が集めなければならないなどと、義務感だけで集めていると、収集がつかなくなる。何より自分が余計に疲れるだけだ。
いつでも今ここに集中出来るようにしよう。その為に、いつも身近に心を鎮められそうなものを用意しておくのも良い方法の一つだろう。それを利用して、いつでも物事を始める時には心をベストの状態にしよう。幸福で落ち着いた心の状態で集中するからこそ、ストレスなしに作業を進められ、判断力も冴え渡る。
人生訓、哲学書、教典、聖書、精神世界本、美しい風景写真、素晴らしい芸術の画集、元気の出る音楽など…。心が平和になり、落ち着くものであるならば、とにかく何でも良い。一番良いのは、身近にある自然の風景を眺めたり、最愛の家族の事を考えたりするなど道具を使わないもの。手っ取り早くて安上がりだ。
但し、熱愛中に恋人を思い出すのは、ちょっと止めた方が良い場合もある。またそれらで空想を膨らまし、ぼんやりするようなものであってもならない。選ぶポイントは、気分が転換出来、今ここに集中する状態に近付けられるものである事だ。
今している事に集中しよう。今をおろそかにして未来を心配する事は、よそ見と一緒だ。今している一つ一つの行動を、心を込めてしっかりこなせばそれで良い。出来る限りの準備をしていれば、後はどっしり構えれば良い。何も心配する必要はない。
重要なのは、今ここでどれだけ集中し、最高の行動・決断をするか。過去も未来も関係ない。なぜならそれらは単なる情報の一つだからだ。実在するのは今ここだけである。また、自分の手が加えられるのも、今ここだけである。存在の全ては、今ここに始まり、今ここに終わる。
言い換えると、貴方は「今」だ。「今」そのものだ。一瞬一瞬の決断が貴方を作り出し、貴方の未来を決める。貴方が瞬間毎に価値判断を下し、新たな価値を増やして行く。貴方が存在しなければ、今という時間もない。今を生きるという事は、貴方を生きるという事だ。
だからこそ、今ここにあるという事を、おろそかにしてはいけない。
おっと、そんなに焦ってはいけない。すぐに何かを始めたくなる気持はわかるが、その前に心を落ち着かせ、「今ここでこの作業に100%集中出来るという状態」に心を調整してからでも、全然遅くない。
むしろその方が効率が良くなるだろう。結果もスピードも最高の状態が期待出来る。途中で気持が別の所に行く事も少なくなる。もしそうなっても、休憩をとり、再び心を最初の状態に調整すれば良い。
焦って心をお座なりにしては、結局無駄だらけになって自分が損をしてしまう。さあ、一息ついて、心を最高の状態にしよう。
忙しい時こそ一息つこう。苦しい時こそ笑おう。そこに神様の心が働いているんだから大丈夫。
あんまりピリピリするな。集中も大事だが、時にその集中が、仕事を義務のように考えてしまう事がある。そうなると、気持がピリピリして、力が入り過ぎてしまう。そんな時は、まだ来もしない結果に気を取られているのだ。
それよりも今している事を楽しもう。一息ついて、笑ってみよう。そうすれば余計な力が抜ける。リラックスした集中が一番だ。忙しい時こそ、一息ついてみよう。苦しい時こそ、笑って楽しもう。そして、今ここに、神様の働きや心が表れていうるという事を想像しよう。神様の助けが必ずそこにある事を信じれば、気も楽になり、作業効率が高まる。
救世主とされる人や教祖となる人が、全員人であるのは何故だろう?世の中大変なんだから、全知全能の神様が直接手を下したら良いのではないか?そんな疑問が湧いて来る。
世界中のどの宗教を見ても、神様は助言を与えても自ら乗り出す事はしない。何らかの意図を持って、出ないようにしている。神の化身とされる聖人達も、多分人だろう。では何故、人を遣わしたり、人の形でないと人間に直接関与しないのか?
彼らは神の化身としてではなく、人間の模範として現われているのだろう。あるいは進化の果ての姿を示していたり、純粋な状態だとそうなるという見本なのであろう。神様は自己解決を望んでおられるらしい。
いわゆる神様と繋がった状態というのは、今この瞬間にこの場所にいるのは神様の意志・自分の運命で、自分はここに在るべくして在るのだという事を自覚し、結果を神様に託して、リラックスした状態でいるとなれるらしい。
そういう時には、座ったりじっとしている場合は特に、手足がビリビリする感覚が生じ、身体が何となくポカポカと暖まってくるのを感じる事ができるようだ。この感覚を覚えておくと良いかも知れない。
神様が本当にいるなら、どんなにつまらない用事でも、そこには神様の意志が働いている事になる。貴方が今ここにいるのも、貴方があまり気が進まないのに行かなければならない用事がある場合でも、単なる遊びでも、それは神様が与えたプレゼントや挑戦という事になる。貴方の目の前に展開されている状況は、神様からの問いかけというわけだ。
前にも述べたように、結果を決めるのは神様の仕事である。そうならば、我々の仕事は結果を気にせず心を尽して神様の好意に応えるだけで良い。その上で失敗するのなら、神様がその結果を望んでいたという事だ。我々は、心を尽すだけで良いのだ。
結果というものは、どうあがいたところでも、出ない時は出ない。自分の努力の範疇を越えた所でも動きはあるのだから。つまり結果とは神の領域であり、神が決める事と言って差し支えあるまい。我々はただ、今いる所ですべき事をするだけ良いのである。
「私が〜してみせる」と言うのは、実は傲慢な物言いなのである。だからせめて「〜となるよう、努力させていただきます」と言い直した方が良いかも知れない。