2006年03月の記事一覧

私のblogにご訪問有難うございます。まず「このblogについて」 をお読みになってからご覧下さい。

2006年03月31日

日本人の宗教観 形式主義の弊害

なぜ人々は、神(全体)と繋がる事を忘れてしまったのでしょう?

それがなぜ消えてしまったのか、それに答えよう。確かにあなた方は古代、神=全体性との繋がりを大切に考えていた。故に繋がりを保つ為、浄めを生活に取り入れた。それによって人々は精神性を保って来た。だが、浄めの儀式さえ行なえば大丈夫という慢心が表われて来た。浄めてい続ければ汚れる事はない、世の中の様々な問題に惑わされる事はないという思い込みが出来てしまったのだ。

過度の潔癖性は思わぬ病を引き寄せる。共生していた善玉細菌まで殺してしまうからだ。磨き過ぎて身を削っている事に気付かないのだ。浄めは万能ではない事を忘れてしまったのだ。

そういえば異常に潔癖性の人って、いますね。温泉好きも浄め偏重に一役買っているのでしょうか。浄め偏重によって、どう変わったのでしょう?

まず、精神の構造を論理的に理解する意欲を失った。多少汚しても浄めれば大丈夫という思い込みが、汚れの原因を考える意欲を持たせなかった。西洋人文化のように、原因や結果への考察はあまり発達しなかった。幸い浄めの行動はイメージを刺激するものだったので、情緒的な感性は敏感なまま残った。情緒的な感性からの欲求を満たす為、観察力はあまり衰えなかった。

次に、情緒的感性が強く論理性が弱い事により、臭いものには蓋的な行動パターンが出来上がった。問題を突き詰める事なく水に流し、浄めで心を切り替えるのが常となった。決して間違いではないが、こればかりでは進歩がないという事に気付かなかった。

では、浄めの性質が衰えて来たのは何故でしょう?

とにかく浄めれば問題ないという風潮が広まり、浄める儀式さえすれば何とかなると思い込むようになった。そこから形式を重んじる風潮も派生した。だがこの形式主義が発生した事で、形式の奥にある意味が見過ごされやすくなってしまった。

形の中の意味は、専門家の間では伝えやすかったが、そうでない人々には伝わり難かった。そこから一般の人々の間には、体裁さえ整えば良いという風潮が生まれた。自然に清めの儀式や祭も形ばかりのものとなって行く。結果、大多数の人々は形式・体裁にこだわるようになり、心を見失った。形に囚われ、表面的なものしか見なくなった。

近年になって急に精神性が失われたように見えるかも知れないが、変化が急激になっただけだよ。流れとしては大昔からあった。

この辺りまでの事は私も考えた事があるのですが。

考えさせたのは私だよ。それはさておき、あなたはもっと深い所を知りたいようだね。でも、焦らなくて結構。ちゃんと教えてあげる。

頼みますよ。それで、このような日本人の精神が、どんな害をもたらすのでしょうか?

それはあなたが注目して止まない第二次世界大戦時の日本を見ればわかるだろう。軍人は実績よりも年功序列で昇進し、現実よりも面子を重視し、嘘に嘘を重ね、臭いものに蓋をして、不備を精神の純潔でカバーしようとして、悲惨な敗北を喫した。まさに形式や体裁への偏重が引き起こした悲劇だ。

現代政治における箱もの公共事業もそうだ。形さえ与えておけばそれで経済政策は万全だという思い込み。これで大きな利権が生まれ、腐敗が進行した。教育もそうだ。良い大学に入り、良い会社に入りなさいと教育し、結局人間性を失い様々な汚職・モラルハザードが起こる。例を挙げればきりがない。

これが日本人の宗教観から発した誤解という事ですね。

そのほんの一部だが、日本的なものを抜き出してみた。確かにニール氏の指摘する宗教観の誤解は日本にも存在するよ。まあ、神様という概念が東洋と西洋ではかなり幅が違うから多少の違いはあるが、大体はあの通りだ。これについて、あなたはまだ話したいかな?

う〜ん、大体あの通りで済ませられるとは…。

君はもっと様々な事を話したがっているようだからね。一旦別の話題に切り換えても良いが、どうだい?

まあ、確かに色々ありますが。

いつでも戻りたい時に戻れば良い。この対話には終わりはないからね。あなたが望まない限りは。

そうですね。ではとりあえずこの話は終わりにしましょう。

君は私との対話をもっと深めたいようだね。

勿論です。

でも、何となく話題が自分の思考の範疇から抜け出さなくて不満に思っているね。

仰る通りです。

焦らない事だ。続ければコツが掴めて自然に深まってくる。絵の方も深く楽しみたいのだろう?人生をもっと充実させたいのだろう?だったら生活のリズムを建て直す事だ。この対話も義務にしてはならない。その日に無理なら、その日はやめても良いんだよ。無理はいけない。無理をすれば歪みが生じるから。

わかりました。気を付けます。しばらくは個人的な事柄に集中して対話する方が良いかも知れませんね。

その方が良いだろうね。

Posted by ガスパーチョ at 23:54 | Comments (0) | TrackBack

2006年03月30日

日本人の宗教観 和から同調へ

日本人と宗教をテーマに語るという事ですが、まず何から話せば良いでしょうか?

思いつく所から始めてみなさい。

じゃあ、一般的な神様に対する接し方から見てみましょう。生活の中の風習や、お祈りの時の態度など。

そうだね。

まず神様といえば神頼み。日本人は何かと言えばすぐ神頼みしますね。神道自体が現世利益の為の祈祷を行ないますからね。神道は、お祓(お浄め)と祈祷を主な活動として行ないますから、かなりシャーマニズム色の強い宗教です。だからこそよく神頼みをするのですが、本来の神道の仕事としてはお祓の方がメインのようですね。

そう、古来から日本人は自分自身や身の回りを浄める事に特に注意を払って来た。

私は部屋の掃除がなかなか出来ませんけどね。

まあまあ、それは後から話そう。日本人は現世において、心が周りの様々な刺激によって彷徨い、神とのつながりを忘れてしまいがちな事を知っていた。だから清めの神事(祭)を行なって心の清らかさを保つ事を心掛けて来た。この清めの技法は大自然のリズムに沿ったものであるから、全体との調和を維持する作用に優れている。そうやって古代の日本の人々は神と繋がっていた。全てと和する事=神と繋がる事こそ幸せの秘訣だと知っていたのだ。

だが、いつの頃からか清めの意味合いが薄れて行き、祭が娯楽性を高めて人々の交流の場という意味合いばかりが強くなった。決して娯楽性が悪いと言うのではないが、調和は当たり前の事、つまり常識とされて、深く考察される事がなくなってしまった。和をもって尊しとする思想は、時代を経る毎に周囲と同調する事が当然という風潮に変わってしまった。

それが仲間外れ(村八分)やいじめの起こりやすい国民性を生んだのですね。

そう、少しでも周囲と違えばその違いを恐れたりしやすくなってしまった。仲間同志の結束を強める為に、集団によるいじめが発生する。仲間と同じ事をする安心感や、異なる事で疎外される事を恐れて流行りに飛び乗る、あるいは勢いのある勢力に便乗する態度もこの誤解から生じている。

なぜ人々は、神(全体)と繋がる事を忘れてしまったのでしょう?

それは次回に話そう。

Posted by ガスパーチョ at 17:01 | Comments (0) | TrackBack

2006年03月29日

一体感を思い出す

あなたは、政治の表舞台では全く人類の危機にも国家の根本的問題にも触れず、勢力争いばかりを続けているのが問題だと言いたいのだね。

そうです。確かに一人一人の心を改善して行く事が、着実に少しずつ人類の進む道を変えて行くのでしょうが、政治家の多くは天下取りばかり気にして社会をますます混乱させているだけに思うのです。彼等は権力を持ち、我々の生活に大きな影響を与え得るから質が悪いのです。彼等のあまりに強力な影響力が、心の変化よりも早く破滅をもたらすのではないかと心配なのです。

確かに時間の問題ではあるね。しかし、物事の真実は見た目通りとは限らない。確かに権力を握る一部の政治家や、それを陰から支え、動かしている勢力の力は絶大だ。見た目もその効果も大きい。

だが、静かに進行する心の変化は、それにも増して強く大きな力を秘めている。数の力では、圧倒的に君達の方が多いんだ。彼等の行動は直接的なものばかりだが、君達は外堀から埋めて行き、さらに兵糧攻めを行なうような間接的な行動が主なものだ。確実性においては心の変化の方が圧倒的なのだよ。

だからこそ、世界各地に多くのメッセンジャーが誕生し、今後も多くのメッセンジャーが生まれる事を期待されている。君達メッセンジャーは互いに団結し、欲に塗れた人々の暴走よりも強力にメッセージを発信し続けなければ、文明は崩壊するだろう。

彼等の横暴を気にするより我々の連帯と協力を強化する方が遥かに生産的だという事でしょうか?

そう、いかに迅速にあなた方一人一人が、この混乱した腐敗と戦乱のドラマから目を醒ます事を望むかどうかが、今後の鍵を握る。いかに本気で心の問題と取り組む風潮を生み出すかだ。そうすれば、彼等の戯言も急速に効き目を失って行くだろう。尤も、彼等の横暴を無視しろと言うのではない。放置する必要はない。ただ、彼等を止める事は、対症療法の一つに過ぎない事を理解しておいた方が良いだろう。

なるほど、メッセンジャーの連帯と増殖、真の問題を理解する人々が増えて行く事が重要なのですね。

その通り。あなた方とその他全ての一体感を呼び覚まし(思い出し)、刺激する事が重要なのだ。

ただ、こういう事を書くと新興宗教みたいに見えてしまいますね。

そう、世の多くの宗教家・宗教団体は、ここで誤解をしている。

やはりこの心の問題は、宗教を無視しては語れないのですね。

そうとも。無宗教と言われている日本人も例外ではないよ。日本人だからこそ宗教心があるとも言えるね。神社仏閣に教会から聖地まで、これほど沢山ある国も珍しい。日本人は感覚的に宗教を理解している。だからこそ、論理的にも理解する方が良いのではないかな?あなた方がどのように神を信じ、神をどう理解しているか。また、どのような誤解を持っているかも理解した方が良いだろう。この辺りの事を次の対話からのテーマにしてみようかな。

そうですね。

Posted by ガスパーチョ at 17:03 | Comments (0) | TrackBack

2006年03月28日

考え方が問題だ

最近はしきりに「今この瞬間に集中しろ」というような内容ばかりの気がしますが、将来の設計は気にしなくて良いのですか?

大体の設計は必要だが、気にする必要はないよ。気にしようがしまいが、あなたは生まれる前に前もって人生を設計している。但し、自分の行なう事に関する具体的な計画があるのならば、計画を練る事も大事だ。私が言いたいのは、そのような計画ばかりに気をとられて現在の状況に集中出来なくならないように注意していただきたいという事だ。あなたは特に想像力が強く、想像に気を取られやすい。そして将来を設計するという事とそれを常に思い描く事とを混同して、思考力を浪費する。私が今この瞬間に集中する事を勧めるのは、それをしないようにする為だよ。

未来にしなければならない事を思い描き、いつも「次はこれが待っている。その次はこれがある」と未来のあれこれを想像して、失敗するのではないかと心配して、現在の作業に力が入らないという事はよくありました。確かに今迄は、計画を立てて行動する事と、計画を思い描きつつ行動する事を混同していましたね。

あなた方にはそのような思い違いが結構あるよ。人生や価値観に関する基本的な部分で既に間違っていたりするのだから仕方がないがね。

このような思考法に関する教育って、全くされていませんよね。

学校で行なわれる教育の大半は記憶する事だからね。最近は考える事を重視した教育方法を取り入れつつあるが、それでもまだまだだ。価値観を刷り込もうという人々もまだまだ沢山いるね。

大抵の場合、優れた思考方法は、親から子へと受け継がれる事が多いね。だから仕事が家系で受け継がれるのも、ある程度は有効な事だ。だが、それぞれが思考方法を公開し、共有すれば、より素晴らしい思考方法を子供達に与える事が出来るだろう。適切なものの見方、適切な思考方法、これを多くの人々が共有出来れば、世界は今よりもかなり住みやすくなるだろうね。

そうでしょうね。でも、そういう事は一部の権力者や利権を握った団体が嫌がるでしょうね。

君の言う通り、彼等は民衆が賢くなる事を望まない。だから同じ価値観になる事を強制する教育を好む。ただそれでは人間の文明生活が今後成り立たない事は明白だ。そこで少しずつ考え方を一般に解放したり、エリート教育に力を入れたりして体制維持を計ろうとしている。だがそんな時間はもうないよ。この文明を崩壊させずに存続させたいのならね。

そうなんです。メールがどうのこうのと騒いでこっそり法案を通している場合じゃないんです。一国の問題でもなく、全人類が一刻を争う事態なんです。なのに世の中つまらないバカみたいな話題ばかり問題になって、物事が遅々として先に進みません。どうすりゃ良いんですか??

(続く)

Posted by ガスパーチョ at 23:57 | Comments (0) | TrackBack

2006年03月27日

今こそ心と向き合う時代

神様、私もですが、時代が経過する毎に人々の心は精神的ストレスに弱くなって来ているような気がするのですが、どうでしょう?なぜ弱く感じるのでしょうか?

道具の発展に伴う運動不足で肉体的に弱くなっている事が、第一の影響としてまず挙げられるだろうね。次に地球や自然の環境を破壊した事による影響もあるだろう。さらに人々の心を無視した社会システムが行き着く所まで来た事も挙げられるだろう。そして、これらが複合して精神にストレスを与え続ける事にも影響されている。他にも細かい事を挙げればきりがないが、大体こんなものだろう。

そういえば、あるサイトでは悪い宇宙人や霊が関与し易い状態になっていると書いていましたが。

確かに彼等のような存在があなた方をたぶらかしたり挫折させようと考え、関与する場合もある。しかし、彼等の関与はごく僅かな心の隙間からしか出来ない。あなた方が本気で社会を改善しようと考えて行動して行くならば、彼等の関与はほとんど気にする迄もないレベルになるだろう。過度のストレスにさらされて、肉体や精神が疲れ切っていない限りは気にする迄もない。あとはあなた方が自分の心とどう向き合うかによる。結局はあなた自身の問題となるのだよ。だからまず、あなたがあなた自身の心に向き合う事を心掛けなさい。

この点についてはそれほど心配する必要はないのですね。

そうだ。むしろ彼等に気をとられてはならない。彼等の関与によって人々の精神のぶれやすさが激しくなっている事も確かにある。だからこそ、あなた方は自分達の心に向き合って、心の闇を見つめ直した方が良い。先ほど述べた幾つかの大きな要因も、これまでになくあなた方に強い影響を与えている。これはあなた方が、人類の全体的意識が、そうなるようにあらかじめ定めた事でもある。あなた方はあなた方自身を追い込み、あなた方が目覚めるように促しているのだよ。

我々が自分自身に課した課題なのですね。

そう、あなたが追い詰められて精神世界に足を踏み入れたのと同じだ。

社会全体が恐怖に敏感な状態なのも、そのせいでしょうか?

そうとも、強権的な指導者が強行的な行動に走るのも、あなた方の為なのだよ。さあ、あなた方はどうするかな?今度もまた酷い殺し合いを繰り返すのかな?それとも自分達自身の意思で今度こそ社会を変えていくのかな?

そうですね、今はその岐路に立たされていると思います。今のままだとどうなると思いますか?

君達の心は絶えず揺れ動いているからねぇ。何とも言い難いね。でもさっきの選択肢で、被害の大小が違う程度だから、予言する迄もないだろう。世界情勢を見ていたらわかる事だし。大体の想像はつくだろう?

それよりも、あなたがどうするかを考えた方が良いね。予言を信じてその選択に注目してエネルギーを注ぐよりも、あなたが宣言してその選択肢にエネルギーを注いだ方が、何倍も有意義だよ。

ただ、情勢と言えば、日本国民の政治的無気力感は気になります。このおかげで政治家はやりたい放題で、どうも権力側やそれに関係する組織のあちこちで不穏な動きもあるようですし…。私自身もこのまま彼等に好き勝手させるのを許す気はありませんが、無力感があるばかりで何も有効な手立てが浮かんで来ません。

こういう状況も今回の質問を意識せずにはいられないのですが、やはりこれも我々自身が設定した問題なのでしょうか?

その通り。今まさに、あなた方が心と向き合う時代が到来しているのだよ。今迄のように、過去からの情報をそのまま受け継いで済ませるのか、心の問題に正面から向き合って、本気で問題を解決するのか、それが問われている。

だからこそ、これらの問題を解決するには、あなた方の心を見直す方向で処理して行かなければクリア出来ないだろう。勝手に問題が沸き上がるのではない。あなた方の心から問題が沸き起こり、世界のあらゆる所に破壊を引き起こしている。あなた方が心の破壊を止めない限り、外の破壊も止まらないだろう。

これからの問題に対応するには、心を意識しないと解決が難しいという事ですね。心の中の人間性=良心を意識し、刺激する行動をとれば、解決に繋がりやすいという事ですか?

あなた方は表面的な問題にばかり気をとられていた。だからこそ今の状態にある。対症療法ではなく根本治療を行なう時だと、この時代は示している。だから解決しやすいとか有効とかいう問題ではない。根本治療を行えるかどうかの問題なのだよ。まあ、良心を意識するのは悪くはないね。あなた方の大半は否定的イメージを重視する傾向がある。

そうですね。以前、自分が物事や自分自身に対してどれだけ肯定的、否定的に捉えているかを数えてみた事があります。

驚いただろう?

驚きましたよ。圧倒的に否定的な捉え方が多かったですから。特に自分自身に対しては多かったですね。

そう、あなたのように多くの人々が物事を否定的に捉える癖がついている事に問題がある。これを克服し、さらに価値をあらかじめ与えずに情報の一つとして捉えられるようになれば、世界は大きく変わるだろうね。そして、人々は何が本当の問題かをしっかり検討し、議論し合えるようになる。そうなれば、問題解決もスムーズになるだろう。

今の時代は、この事に向き合い、解決する為の大きなチャンスという事ですね。

その通り。いまこそ中身からの変化が重要なのだよ。社会の現状が価値観そのものと向き合う事を促してくれている。あなた方の考え方の全てを今こそ見直す時だ。だからこそ心の弱さが目立ち易い状況にあるのだ。

わかりました。ありがとうございます。

Posted by ガスパーチョ at 23:54 | Comments (0) | TrackBack

2006年03月25日

最初はゆっくり行きなさい

私が絵を描けなくなったのは、私がそのような状態になる事を、人生設定の段階で考えていた訳ですよね。

そうだ。

それがわかっていても私はまだ「絵を描かねば」と思って気分が重くなります。日々勉強しなければならない、将来の為にしっかりと準備しなければならない、…そう考えるだけでうんざりです。しなければならない事はない、それは頭ではわかっているんです。でも考えてしまう。癖ってなかなか抜けないものですね。

そうだ。心の癖は簡単には直せない。長年あなたが愛用して来た考え方だからだ。実際に役立つ考えならば直す必要はないが、あなたは重荷に感じている。あなたが変化したからだ。勿論勉強も準備もどんどんやれば良いが、あなたはどうしても自分を縛り付けるものと看做してしまう。これもまた新たな癖だ。癖から抜け出したと思ったら、また逆の性質の癖にとりつかれてしまった。だから苦しい。癖から抜け出そうとする時にはそういう事が良く起こるものだ。

あなたは誰にも縛られないし、指令で動くのでもない。神である私は、あなたには何も求めていないよ。何も目立った事を成し遂げなくても構わないとさえ思っている。あなたがあなたでいてくれるだけで、それで良いと思っている。勿論あなたが何かを行なうならば私は全力で応援しよう。だからそんなに人生を恐れなくて良い。あなたは自由でいなさい。あなたがあなたでいるには、そのような姿勢が重要だ。思考は現実化する。だからこそ、私の助けを信じ、何とかなると考えれば、何とかなる。気持が深刻になる時には「意外に何とかなるものさ」と考え直して見なさい。

わかりました。やはり自分の気持に気付いて、考え直すという地道な「検証と改善」がものを言うのですね。

その通り。何をするにも「検証と改善」は有効だよ。自分や状況に気付く事、そこからどこを変えるか、それを考えて修正して行けば良い。勿論その時に目標が見えていないと改善は出来ないがね。あなたの人生ははっきりと目的や目標が見えてるかな?

ええ、大きな目標は見えていますが、目標に怖じ気付いて、心がつまづきます。目標を立てる時点で先ほどの心の癖が頭をもたげるのでしょう。すぐに「ねばならない」のオンパレードで、未来からのストレスが一気に押し寄せて来ます。

ほほう、未来恐怖症だね。結果を出さなければならない強迫観念と、結果を評価されないのではという不安感、実際に結果を出せるほどの能力がないのではという疑い、それらが「ねばならない」の考えを呼び覚ます。

だったら、あなたの場合はこう考えてみればどうかな?あなたは画家になる必要はない。あなたの絵は、純粋にあなた自身の為のものであり、それでお金を稼いだり賞を受け取ったりする必要はない。絵は人々を助ける為ではなく、自分を解放する為のものだ。だから他人の評価はどうでも良い。賞を狙う必要も絵を売り込む必要もない。絵で儲ける必要はない。絵はあなたを解放する聖域だ。あなたは絵で労働する必要はない。…これらを思い出すと良いだろう。

そうですね、自分が楽しめなければ良い絵も描けませんからね。職業として捉える必要はないのですね。天職や使命なら、自然に導かれますよね。

その通り。人生は大変な事もあるだろうが、深刻に捉える必要は全くないのだよ。絵を描きたいのなら、どう楽しむかに焦点を定めてやると良いだろう。そうすれば、成功した画家としてのステップではなく、絵を楽しむ上での新たな刺激として、賞を狙ったり絵を売ったり出来るだろう。

自分の人生における職業選びは大事な事だが、畏まって堅苦しく捉え過ぎては辛いだけだ。自分の人生は一回しかない、それは確かにそうだが、せっかく与えられた人生を楽しまなければ勿体無いと思わないか?人間は苦行をする為だけに生まれて来るのではない。誰もがマゾヒストではない。失敗を恐れず、結果を気にし過ぎず、行動の楽しさを味わいなさい。

それにしても、なぜ私はこんなに楽しむ事が下手なのでしょう?ある程度楽しむ事は出来ていると思いますが、肝心な所で使命感が燃え過ぎてダメになる。なぜでしょう?

根が真面目すぎる所があるね。だからこそ神様と語りたがるのだけれど。君の情熱は凄まじいものがあるよ。これが自然に発揮されれば物凄い推進力となる。だが運転し慣れていないので車輪が空回りしてスリップし、車体を大きく揺らしながら態勢を保つのに必死、そんな状態かな。だからなかなか人生が進まない。なに、もうすぐ慣れるよ。

でもかなりの年月が経過していますよ。何年間もタイヤをギュルギュル鳴らしているだけなんて、私って相当なばか者じゃないですか。

まあまあ、そう焦りなさるな。これはこれであなたにとっては重要なイベントなのだよ。失敗も成功も、等価値の体験の一つだ。そのギュルギュルがあるからこそ私に相談を持ちかけるのだろう?私の助けを求め、こうして私が手を貸している。ちゃんとあなたの人生は進んでいるよ。

ではこの凄まじい情熱とやらと上手く付き合って行くにはどうすれば良いでしょうか?

今は静かに進行しているが、目に見えて発展して行くのはあなたが人生を深刻に捉えなくなり、楽しむ事が出来るようになってからだろう。今は未来の事を忘れてしまって結構。少しずつアクセルを踏み、加速して行く事が大事だ。あなたはいきなりアクセル全開で進めようとするから失敗するのだ。今は遊ぶ時期だと思い、未来を気にせず遊んでみなさい。アルバイトはしているのだから、しばらく人生の貯金を増やすつもりで色々経験してみなさい。絵も遊び感覚で…いや、遊びとして楽しみなさい。芸術はもともと遊びから発展したもの。遊び精神のない芸術など芸術とは言えないよ。だからあなたは遊びなさい。家族に悪いとは思うだろうが、あなたに足りないのは遊びなのだから仕方がない。そもそも今までの人生、ろくに友達も出来ず、大して遊べていなかっただろう。だからこそ遊びなさい。遊びから絵の心を学びなさい。

これは自分の怠け心の自己正当化ではないのでしょうか?

先ほども言ったが、あなたは真面目過ぎる。正しき事への憧れが強い。だからこそ今回のような人生をあなたは選んでいるのだ。遊び心を学ぶ事が今回のあなたのミッションだ。心の柔軟さをこれによって取り戻すのだよ。そこから得た自由によって絵を描き、人々の心をも自由へと解き放つ…これがあなたの人生最大のミッションだ。こう説明すれば満足かい?勿論そのミッションを設定したのはあなた自身なのだがね。そしてミッションから自由になる事、これが究極のミッションだ。ミッションの重圧を気にする事なく、真の自由を手に入れ、自由な絵を描いてくれたまえ。成功を祈る。

なるほど、クソ真面目かも知れませんね。わかりました。当分未来や人生設計はあまり気にしない事にします。

あなたは既に目標を定めている。他に移す気もない。かなりの頑固者だからね。設計せずともあなたなら道を見出だすだろう。今この瞬間をしっかり味わい、観察し、検証が出来るならば、必要なものは自然に見えて来る。さあ、未来を心配せず、今は遊びなさい。

わかりました、遊びから絵の心を思い出します。アクセルをゆっくり踏み、車体がぶれないようにしっかりと進んで行こうと思います。有難うございました。

そう、何事もいきなりアクセル全開では無茶だ。最初はゆっくり行きなさい。

Posted by ガスパーチョ at 23:57 | Comments (0) | TrackBack

2006年03月22日

今を生きるとは

「今この瞬間をしっかり生きるのが大事」と言いますが、果たして今この瞬間だけに集中して生きる人々ばかりの世界になったら、どうなるんでしょうか?そもそも今を生きるとは何でしょうか?今を生きれば良いのなら、過去や未来など完全に忘れてしまえば良いのでしょうか?今だけを生きるとなると、相当ものを考えないで生きる事になるような気がするのですが、自分で考える事をやめて誰かに操られるというような危険性はないのでしょうか?確かに今を生きる事にはかなりの効果があると思うのですが、これらの疑問が湧いて来ました。そこのところはどうなのでしょうか?

君が不安になるのは良くわかる。第二次世界大戦時中の日本の仏教指導者は「今を疎かにしない」という方便によって国家の戦争行為やその原因に疑念を持つ事を避けさせていたのだから。彼等は国家からの迫害を恐れてそのような理屈のすり替えで国民を騙した。そうして物事の原因を考えさせないようにした前例がある。だからそのような不安に駆られても仕方がないだろう。

私は今を生きる事と共に、もう一つ重要な事を教えたはずだ。先入観に囚われず観察する事、これを強調して来たはずだよ。そういったものは観察すれば見抜ける。あなたの中で一番偉大で崇高な部分(つまり私だ)に注意を向けてその感覚に従えば、ちゃんと怪しいものには警告を放つし怪しくないものには安全の信号を送る。

さて、あなたの疑問に答えて行こう。今この瞬間だけに集中して生きる人々ばかりの世界になったらどうなるか…いや、その前に、今を生きるのが大事なら過去や未来は忘れていいのかという疑問から答えよう。定義をしっかりしないと話が噛み合わないからね。

そうですね。質問は明確なほど答えも明確になりますからね。

今この瞬間を大事に生きるという事は、過去や未来、思考の中で漂いながら片手間に行動しないという意味である。決して過去や未来を捨てろという意味ではない。そもそも過去や未来を意識する必要がなければ最初から意識しないような進化を遂げているし、こんな事であなたは悩まなかっただろう。今を生きるとは、過去や未来、思考を情報として正確に利用できる態度を言う。過去や未来は気にしなくても良いが、つながりを理解する為には必要な情報だ。あなた方人類は、つながりに対する理解を深める為に、この世界にいるのだ。過去や未来を忘れても構わない(実際前世や未来世は忘れている)が、不必要ではない。

今を生きると相当ものを考えないで生きる事になるのではないかという疑問だが、その見解はある程度当たっている。あなたが考え込む事はかなり減るだろう。今までが逆に、考え過ぎておかしい状態だったのだよ。考えと言うよりは妄想だね。妄想から生まれた妄想について妄想したりするような、まさに夢を見ている状態だ。無駄に思考を浪費して、混乱した社会を築き上げた。混乱の極みから抜け出すには、その逆の行動をとれば良い。無駄な妄想を考えないようになれば良い。勿論何も考えないでぼんやり生きろと言う訳ではない。この世界はあなた方自身の実験場でもある。色々な状態を創造しなさい。いや、そうしたくなるはずだ。あなた方は変化を望む。あなた方が自分達をそうデザインしたからだ。

他人に操られる危険については、先ほども述べたように観察が重要になる。そもそも今を充分に味わう生き方をするならば、今この瞬間の状態をしっかり認識する必要がある。その為におのずと観察をする事となる。今を本当に生きるならば、あなたはあなた自身の判断によって行動せざるを得ない。どんな指令・提言・助言も過去のもの=単なる情報となるのだから。瞬間瞬間、その都度状況を検証せざるを得ないのだから、当然情報も検証する事となる。その為にはどんなに信用出来る言葉も客観的に見つめ直さざるを得ない。だから今を生きても全く考えなくなるのではなく、適切な思考が行なわれて無駄な思考が減るだけの事だ。そうして充分な観察をする余裕が出来、自然に観察ができるようにもなる。

さて、今を生きる人々が増えるとどうなるか?ここまでの定義を踏まえて想像してみてごらん。

興奮状態で事件や有名人に殺到するマスコミのような現象はかなり減るでしょうね。詐欺師も商売がしづらくなるでしょう。人間関係における勘違いも相当減って、勘違いしても大事に発展しないでおさめる事が出来ますから、事件なども物凄く減るでしょう。悩み苦しむ人を見つけるのも早くなり、ストレスの解消も適切に行なわれ、心の病も相当減ります。事故も観察力や検証力が増して未然に防いだり安全対策も適切に行なわれるようになります。う〜ん、良い事ばかり思いつきますね。ただ、観察力がなく、つながりというものが認識出来ない場合は逆に酷くなるでしょうね。

そう、今を生きると言っても、全く何も考えず、脈絡のない行動をしているのでは何の意味もない。いや、逆に体に何らかの異常がないと、なかなかそのような態度をとる事は難しいだろう。人の体は関連性を認識するように出来ている。例えば一般的に用いられる意味での刹那主義的な生き方の人間でも、そこには手軽に得られる快楽という関連性を追い求める態度が見られる。この場合はその快楽を得る事に熱中し過ぎて周りが見えていないだけだ。本気で快適さを求め続けるならば、次第にその生き方の問題が見えて来るだろう。それが見えないのは、過去の快適さを思い出し、その思い出の中で生きているからだ。そして、未来に同じものを求め、未来の快楽の妄想の中で生きる。いわゆる刹那主義的生き方は、今を生きているようで、実は今を生きてはいないのだよ。いわゆる刹那主義的生き方は、快楽中毒であるに過ぎない。彼等は快楽妄想の中で生きているのだ。だからこそ、本当の意味で今を生きる事が重要なのだよ。

なるほど、いわゆる刹那主義と今を生きる事とは全く違う事なのですね。それを混同しているから最初のような疑問が湧いたのですね。本当の意味で今を生きる事の重要性がよくわかりました。ありがとうございます。

Posted by ガスパーチョ at 23:53 | Comments (0) | TrackBack

2006年03月21日

結果への執着に気をつける

昨日の夜はしんどかっただろう。

昨日どころか今日までしんどいのを引きずってしまいましたよ。わずかに自分を責めただけで、物凄くしんどさが引き出された感じです。やっぱりうつ病ですかねぇ。それにしても、私がこのような状態になっているのは、何か意味があるのでしょうか?

勿論だとも。ただしんどい人生を歩んだ結果というだけではない。あなたが人生を歩む上で前もって設定した状態の一つだ。尤も、いつまでもこの状態を維持する必要は全くないから早く病院にいって診察を受ける事を勧めるよ。

何故私はこのような苦しみを感じなければならなかったのでしょうか?

あなたが自分の人生を見つめるように仕向けているのさ。そして苦しみを敏感に感じて何が原因で苦しんでいるかをはっきりさせる為。そこから本当の自分を見つめ直し、本当の生き方を思い出す為。その為にあなたはこの苦しみを設定したのだ。これだけ苦しみ、悩まなければ、私と会話しようなんて思いもしなかっただろうからね。

確かにこの世界に満足して普通に暮らせるならば、話す必要はないですからね。自分自身で自分や世界の本質・真理を理解させるようレールをひいている訳ですね。

その通り。そして昨日からの苦しさは今この瞬間に集中する事をより深く意識する為だ。あなたはそれを望んでいただろう?

確かに望んでいました。実際集中出来たとは思いますが、逆に無感覚になっただけではないかと心配でもあります。感覚を遮断して平常心を保ったのではないだろうかと。

そんな事はない。確かに今この瞬間に集中していたよ。予測外の事態に弱いのは保守的態度に凝り固まったからではない。そのような事態をあなたがどう解釈しているかによる。あなたは一種の障害として警戒しているから、とっさの判断で混乱してしまう。そう、あなたはまだ未知のものに怖れを感じているのだよ。

私としては問題を過大に恐れないように気を付けているつもりなのですが…。

「問題」と捉えている時点で既に過大評価だよ。どんな予測外の事態でも、それは「新たな状況」の一つに過ぎない。

それは頭では理解していますよ。でもなぜそういう状況に弱いのでしょう?

人は誰でもそのような弱い部分がある。苦手なものがある。それはなぜか?その状況をより深く味わいたいからさ。よりしっかり味わう為に、わざと弱くなっているのだよ。弱い事は素晴らしい。苦手な事は偉大なのだよ。時には身体的・精神的に辛いだろうが、これこそ人生の一番輝かしく美しい状況だとも言える。人生の難題に挑む事こそ、人生の醍醐味だ。それをより深く味わい、しっかりと思い出す為にあなたは人生に挑む事が苦痛となる人生を選んだ。だからあなたは弱い。

弱い事が素晴らしいとは思いもしませんでした。

強い・弱いや得手・不得手も個性の一つに過ぎない。トップアスリートだろうがホームレスだろうが、それらは状態の違いがあるに過ぎず、そこから人間としての価値を判定しようと考えるのは無意味だよ。いや、人間としての価値という、曖昧でよくわからない価値基準を設定している時点で無意味だ。そういうものを気にしているのは、自分に価値がないという妄想に駆られているか、価値がないと洗脳されている場合に、理由をこじつけて自分の価値を高めたい場合に気にする。ものさしによって人の価値などどうにでもなる。ある人がトップアスリートとして大金を稼いでいても、ある人が見ればただ遊んで儲けている運動バカとなる。ある人がホームレスで不潔な身なりで周辺の住民から嫌われていたとしても、ある人は彼の心に美しいものを見い出していたりする。そもそも人間そのものの価値なんて判断出来ないよ。人間はただ人間なんだ。石ころがただ石ころなのと同じくね。

ううむ、まだ私にはそのような根拠のない価値基準が染み付いていたんですね。

そう、だから難しい状況=失敗する事を悪と決めつけ、困る状況を避けようとしてしまう。避けようとするから混乱する。だからあなたは予測外の状況に弱い。わかったかな?

わかりました。まだ「失敗は悪である」という幻想を抱いているのですね。いや〜、頭ではわかるのですがねぇ…。なかなか幻想が抜けません。

そのような幻想を抱く余裕もないくらいにしんどいと、集中出来ただろう?昨日からのしんどさは、それを知る為でもあったのだよ。

ええ。しかしそんなしんどさがないと集中出来ないなんて嫌です。これでは心が持ちませんよ。

だから病院に行きなさいってば。

はい、勿論行きますよ。「失敗は悪である」という幻想から抜け出すにはどうすれば良いでしょう?

一番の薬は、失敗してみる事だ。経験から学べば一番速い。そうして失敗は本当に悪なのか、検証してみる事だ。

でも、失敗は自分のデータとして活用出来る事は既にわかっていますが、同時に周囲の人々に迷惑をかけ、負担を強いる事にもなります。そういう意味では悪なのではないでしょうか?

確かにそうだとも言える。しかしそれは一面的見方に過ぎない。失敗とは言え、それはあなたにとっても相手にとっても貴重な経験であり、共通の創造の場でもある。失敗も立派な創造である。但しあなた方の想定外の創造ではあるが。失敗から新たな発見が成される事は歴史を見てもよくある事だ。だから望まない状況でもそれはそれで問題はない。勿論自分や相手を著しく傷つけたり周囲に過大な迷惑・被害を及ぼす事は得策とは言えない。そういう状況を許すのは確かに良くないだろう。ただ、あなたのように全部が全部「失敗=悪」という単純な分類に収めてしまうのも問題だ。そう、人間の起こす混乱の元の一つが、その「単純化」なのだよ。それは最近の政治を見ても良くわかるだろう?

ええ、うんざりするほど。その単純化はどこからくるのでしょう?自分の求める状況が来て欲しくて、強くその状況を望むあまり、心が焦って途中経過をすっ飛ばして結果に至りたいという願望がそうさせるのでしょうか?

御名答!まさにその通り。結果への執着が、そのような希望的観測を生み、物事を単純化して強引に物事を進めようとする。その結果、周囲に軋轢が生じ、新たな問題を生み出す事になる。その連続で、あなた方の文明は問題だらけになっている。

という事は、「失敗=悪」という単純化も、結果への執着が原因なのですね?

その通り。あなたは問題の起こらない状況を望んでいる。しかしそれはあり得ない。あり得るのは問題を問題と考えない状態だ。状況に対して適切に対応する状態になれば、それで充分だ。結果を求め過ぎると途中経過…つまり今この瞬間を疎かにする事になる。それ故にあなたは失敗を誘発しやすくなる。

また今までにblogで書いたり本で読んだりした事と同じ内容になってますね。

君が理解するまで何度でも繰り返されるよ。君が理解したがっているんだから。何度も言って来たね。結果よりも経過だと。未来や過去よりも今この瞬間だと。本当に、これに納得出来れば人生は大きく変わり得る。これをしっかり生活の中で活かせば、真に創造的な人生となる。だからこそ繰り返し同じ事をメッセージとして伝えている。本当に大事な事なんだよ。どんな状況にも繋がるメッセージだから。

私のこれまでの経験は、全てその為の経験だったのですね。

その通り。あなたが目覚める為に、あなたがあなた自身を揺り動かしている。目を醒ます為に、根拠なき価値判断をやめ、論理的に検証しなさい。過去のデータからではなく、事実を観察し、そこから判断しなさい。結果は一つの目印に過ぎない事を思い出しなさい。不測の事態で混乱したら、落ち着いて、これらの事を思い出しなさい。

有難うございます。今この瞬間にできる事を最大限に行なう事、それが自然に結果へと繋がりますから、結果を求め過ぎない事に注意してこれからを過ごして行こうと思います。

本当に、結果は求め過ぎちゃいけないよ。君が絵を描けなくなったのも、求め過ぎたからだ。そうして焦って混乱し、失敗を怖れだし、目標に怖れをなして、絵を描く事が恐怖へと繋がった。今を充分味わい楽しむ事で、結果はおのずと表われる。何も恐れる事はない。

わかりました。では今日はこの辺りで終わりましょう。有難うございました。

くれぐれも、結果に気をとられて焦らないようにね。ありがとう。

Posted by ガスパーチョ at 23:56 | Comments (0) | TrackBack

2006年03月19日

神と話す仕組みについて

毎日今この瞬間に居ようとしていますが、なかなか思うようにはいきませんね。

それは仕方のない事だ。今まで散々今を生きない生活を続けて来たのだから。少しずつ思い出し、慣れて行くしかないよ。

ところで前回は「うつ病の可能性がある」とおっしゃいましたが、なぜ断定しなかったのですか?

それは君次第だよ。君のコンディションが良ければ断定出来るレベルにまで近付く事が出来る。それにあなたの質問はうつ病かどうかを問う質問ではなかった。

うーん、何だか納得が行くような行かないような…。

あなたさえ心を開けば、どんな事でも答えてあげよう。ただあなたはまだ心を開き切っていない。自分では開いているつもりだろうが、もっと開く事ができるんだよ。この対話をして行く内に、どんどん慣れて行くから心配はいらない。

心が開いていないという事は、私は神とまだ繋がっていないという意味ですか?

そうではない。あなたはしっかりと繋がっている。私とのつながりがないものは存在しない事を忘れた訳ではあるまい?

ええ、私が聞きたいのは、真の神様レベルとの情報のつながりは出来ていないのですか、という事です。

よろしい。質問は具体的に行ないなさい。そうすれば適切な答えが返って来るだろう。あなたの精神レベルがどうであれ、私からの情報は必ず届く。どんな隙間を縫ってでもあなたの元へと届くのだ。それをあなたがどう解釈するかという違いに過ぎない。あなたの主観的判断が情報を歪める。だからあなたの精神がどうあれ、私との対話自体は可能なのだ。情報を判断なしで受け取り、受け取った後で分析しなさい。

なるほど、精神のレベルで受け取る情報のレベルに違いが出る事はないのですね。

勿論。

私が恐怖や不安に応じて、勝手に判断してしまうから、情報が歪んでしまう。確かに精神状態によって意味の解釈は異なる事がありますね。

そこが問題だ。物事を判断する時や情報を受け取る時には特に心の状態に気を付けなければならない。

何だか最近読んだアカシック・レコードの本と同じような注意ですね。

そうとも。事実と向き合う場合にはそうするのが一番適切だろう。それに神もアカシック・レコードも同じようなものだ。どんな繋がり方をするかは問題ではない。それに私がどんな状態であろうと問題ではない。私は全てなのだから。そしてあなたも全てだ。私の情報はあなたのものだ。これに何か問題でもあるかな?

いえいえ、全くございません。あともう一つ疑問なんですが、私が話しているあなたは本当に究極の神様でしょうか?途中で何らかの存在による取り次ぎがあるのでしょうか?例えば天使のラファエルとか死んだおじいちゃんとか妖精とか守護霊とか、そんな存在が情報を仲介していたり、直接彼らが情報を提供していたりするのでしょうか?

ほっほっほ、面白い事を聞くねぇ。言ったはずだ。私は全てであると。もう忘れたか?さっき「私からの情報は必ず届く。どんな隙間を縫ってでもあなたの元へと届くのだ」と言った所だぞ。もちろんあなた側の問題として、あなたの守護霊や関係する存在達が私の言葉を受け入れやすくする態勢を整えてはいるがね。そういう意味では確かに彼らが取次いでいる。しかしインスピレーションは私からのものだ。心配はいらない。ちなみにそのインスピレーションを引き出しているのはあなた自身だ。あなたが聞けば私が答える。そういう事だよ。

なるほど、それは彼らに感謝しなければ。

そうしなさい。きっと彼らも喜ぶよ。

では、私が望めば、彼等とも対話出来るのでしょうか?

勿論だとも。試してみれば良い。彼等が答えてくれるだろう。彼等も君と話したがっている。どんどん試したまえ。私と話すのと同じようにすれば良い。

そうですか。それは凄い。しかし、具体的に私を助ける存在はどんな存在で、どれだけの数が関わっているのでしょうか?

聞いて驚くかも知れないが、軽く百は超えているよ。何らかの形で関わっている存在を全て数え上げれば数百万に及ぶだろう。いや、言葉が適切ではないな。関わらない存在はない。あなた自身に少しでも直接的関与をしている(あるいはした事のある)存在は数百万いるという事だ。その中で中心的に働いているのが数百、その中でさらに深く関わっている幾つかの存在が、守護霊とか守護天使などと呼ばれている。

そんなにいるんですか?

何を言う、現実世界でのあなたを支える存在だって、何百万といるではないか。あなたの人生を今までに支えた事のある人間だけでも軽く百を超えるよ。あなたの食べて来た生命体を数えたらどれほどになると思う?あなたの体の中で共存している微生物は何匹いると思う?それらを加えたら倍以上になるだろう。あなた方一人一人は、無数の存在によって助けられ、生かされているんだよ。

凄いですね。でも考えてみればそうですよね。自分一人で生きているようで、それぞれ助け合って生きている。それはみんな繋がっているという事でもありますね。繋がっているからこそ助けないと自分も困る。他人も自分ですからね。

そうだよ、よくわかっているね。だから、私と語るように、テレパシーで誰かに語りかける事も全く自然な事なんだよ。誰かの事を思い出したらその相手から電話がかかって来たというような事が起こるのも、繋がっているからだ。そう、全ては繋がっている。だからこそ不可能はない。全ては神でもあるのだから。未来の自分や過去の自分と語る事も可能だよ。そういう事をやってみるのも面白いよ。色々な存在と話してみなさい。それらの存在からも私の言葉が発せられているのがわかるだろう。様々な異なる個性の存在と語ってみなさい。

イタコのような感じですね。

そうだ。これがいわゆる霊界通信とかチャネリングとかいうものだ。本来こういうものは誰でも出来るのだが、現代の人間は固定観念に囚われて出来なくなっている。しかし一部地域の人々にはまだその能力があるよ。先祖の墓に行けば先祖と普通に会話できる人々もまだ存在するよ。これは君も知っているだろう?

はい、バヌアツの人々ですね。今はどうか知りませんが、そういう人々がいると聞いた事があります。

その調子で色々なものたちと会話し、あなたの固定観念を崩しなさい。そしてテレパシーによる会話を普通の行為だと認識するまでになりなさい。そうすれば、通常ではあなたの知り得ないような情報も簡単に入手出来るようになるだろう。

今はまだ私はそこまで深く知る事が出来ないのですね?

あなたの挑戦次第だ。色々な存在と会話して楽しみなさい。例え会話が成り立たなくても、君を陰で支えてくれる存在達に感謝の言葉をかけてやりなさい。彼等はきっと喜ぶと思うよ。そう、言葉が通じなくても、心は通じるのだよ。心で接しなさい。心のふれあい、それが神と語るという事だ。

ありがとうございます。テレパシー会話術、色々試してみようと思います。

Posted by ガスパーチョ at 23:52 | Comments (0) | TrackBack

2006年03月17日

心が沈んだ時

時々訳もなく落ち込みやすくなったり、プラス思考しているはずなのに気分が重い時があるのですが、なぜでしょう?

それは君、病院へ行った方が良いよ。うつ病の可能性がある。その症状は相当昔からあるだろう?特にここ数年はかなり無気力だったはずだ。あなたの心が原因でもあるのだが、小さな頃からのそういうストレスが溜まりに溜まると、心を改善したとしてもうつ病やそれに近い症状が出る事がある。あなたの性格であなたのような人生を辿ればうつになっても仕方がない。いつもしんどいだろう?体調がいつも悪いのもその影響だ。思い切って精神科や心療内科へ行ってみなさい。

何も心は自分だけで治さなくてはならない訳ではない。あなたは自分で治せる所はかなり治しているが、一度心の専門家に診てもらうのも悪くない。あなたは本当にうつ病なのか悩んでいるようだが、悩む位なら診てもらいなさい。

わかりました。悩むより行動する方が良いですからね。

その通り。うつではなくても心が沈む時はある。そんな時は運動をするなり太陽の光を浴びるなりしてみなさい。意外に効果的だよ。うつ病でも多少の効果は出るはずだ。何故だと思う?

どちらも頭脳を働かせ過ぎない状態ですね。動きや感覚を意識する事で、より今この瞬間を感じやすくなっています。今を生きる状態に近いから効果があるのでしょうか。

その通り。とことん今を生きる事ができるようになれば、うつ病さえ一気に治るだろう。あらゆる精神病もその状態をキープ出来れば治ってしまう。だが人間は過去を引きずる生き物だから、いきなりそこに到達する者はまずいないだろう。だがそこへ近付く事で病気を弱める事は可能だ。現にあなたはそうしている。この意味ではあなたは大したものだよ。

お誉めに預かり光栄です。やはりいきなり悟るのは難しいようですね。

そうとも、あなた方はなかなか今この瞬間に心を開かない。周りを気にしたり結果を恐れたり、心はいつも心配で忙しく動き回る。今日は結構心を開いていたじゃないか。

そうですね。今仰っていた事を実践して、心が軽くなりました。でもちょっと立ち止まるとまた気が重くなりましたけど。今この瞬間を何かに気兼ねして、100%楽しむ所を70%位に抑えているような自分がいる事に気付きました。

そう、それがあなたを押さえ付けているあなただ。過去の経験に従って生まれて来たあなたの信念だ。騒いだら怒られる、自由気ままに鼻歌を歌ったら、変な目で見られる…そういった小さい子供の頃からの小さな経験・小さな誤解の積み重ねがあなたを押さえ付ける。だから今を生きる事が出来ない。充分に楽しんではいけないという誤解、充分に自分を発揮してはならないという誤解が、目に見えないストレスとなっている。言葉という限定的な意思表示手段を使う人間が人口密度の高い生活を行なうのだから、そうなるのも仕方がない事ではあるがね。

まだまだ自分には見えていない自分が沢山あるようですね。

なに、じきにもっと見えるようになるよ。まあ、見るのが得意でも、見れば見るほどどんどん新たな自分が出て来るよ。だから人間は面白い。それはともかく、少しでもうつ病の疑いがある・気になるのなら、気兼ねせず病院で診てもらいなさい。

わかりました。そうします。今を生きるには、そういった無意識的な圧力に気付き、積極的に心を開き、今味わえる事は今100%味わい尽すという姿勢で生きるように心掛ければ良いんですよね。

その通り。いかにあなたの心を今に開く事ができるか、これがポイントだ。パワー全開じゃなくて良いから、心全開でいなさい。

わかりました。ありがとうございます。

Posted by ガスパーチョ at 23:00 | Comments (0) | TrackBack

2006年03月16日

描きたいのに描けない

さて、今日は何を話そうか。あなたは色々と話したい事があるんじゃないか?

ええ、勿論。そうじゃなければ神様と対話しようと思いません。

だろうね。じゃあ、今日は何を話してくれるのかな?あなたが今一番聞きたい事は何かな?

私の今の状態です。ここ数年ニートとかフリーターなどと呼ばれるような状態を続けて来ました。肝心の絵を描く事をせず、ブログを書きつつもやもやした状態で生活しています。このまま今後数年間も過ごしてしまいそうなのが不安です。絵を描く事が私の使命であると思うのですが、なぜか絵を描く事が出来ません。この心の問題を解決しない限り次へは進めません。ですが描けない、描く行為が続かない原因がはっきりしないのです。

でも、あなたなりに原因はある程度考えているのだろう?それを教えてくれないか?改めて原因を提示して、一緒に検証しようじゃないか。

有り難うございます。まず、絵を描く事を最大の使命と考える事で、かえってプレッシャーを感じてしまっている事です。昔から、一番やらなくてはならない事を避けて、二番目以下のやるべき事ばかりやってしまったりする事がよくありました。次に、「しなければならない」と考え、絵を描く事や画家になる事や絵を完成させる事が憂鬱になる事です。さらに、重荷に感じて出来ない事に対して罪悪感を抱く事。「しなければならない」のだからしなくてよいと考え、本当にしなくなる事。また、絵を描けないのは、本当は自分の使命ではないのではないか、私は勝手な夢を見て、自分の世界に浸っているのではないかという不安。…こんな所でしょうか。

なかなか良い線いってるじゃないか。これだけ分析出来るのになぜか改善出来ない自分に対する罪悪感もここに付け加えよう。そうだろう?あなたは自分の人生の停滞を打破する為に悩み続け、私と語り合うという状態にまで漕ぎ着けた。これも実はあなたの人生の通過点の一つだ。むしろ私と対話がしたいからこそ、あなたはこのような状態になったと言っても過言ではない。

さて、あなたが解決出来ない人生の停滞の原因についてだが、絵を描く事が自分の使命だとあなたが考えているのは正しい。あなたは生まれる前、確かにそう言った。横尾忠則の絵に感銘を受けたのもその為だ。ただ、あなたは自分の使命に恋をし過ぎた。あなたの今までの恋愛と同じように、心が暴走し、思考の悪循環が始まり、あらゆるネガティブな感情が沸き立ってしまい、自滅してしまう。甘美なもののはずが、いつの間にかただ苦しいだけになってしまう。そんな状態だから、あまり人生が楽しくないだろう?

そうですね。だからこそあなたに頼ろうとしてここまで来たのでしょう。しかしなぜ強い思い入れがあると、こんなにしんどくなるのでしょう?どうしてこんなにしんどくなる方へばかり考えてしまうのでしょう?もっと気楽に楽しめたならば、私の人生ももっと順調に進んでいたはずだと思いますよ。どうしてこの歳までむざむざとフリーターで親の脛を齧らなければならないのか。個の立場に甘んじていられる自分も情けないです。

まあまあ、君の気持はわかるよ。神様だからね。だがこれはあなたが選んだ人生だという事を忘れないでくれ。あなたの今の状態は自分を追い詰める為にあなたが設定したものだ。ある選択肢を必ず選べるようにとね。だから甘んじていられる。あなたはこの対話を選んだ。ここで本気で人生に立ち向かう決心をする為だ。あなたはもう何度転んでも立ち上がり、私の方へと歩み続ける決心をしているだろう?

はい。早速転んでますけど…。

はっはっは、慌てん坊だね。で、あなたは私との対話について、重荷に感じているかね?

いいえ。…でもなぜでしょう?これこそ私の最大の望みであると思うのですが。

そう、これこそ絵を描く事との違いが表われた最高の現象だ。これはあなたが純粋に求めた結果表われた現象だ。そこには何の利害もない。何の利害も考えないからこそ、あなたは純粋なまま、素直に対話を始める事が出来た。

私は絵を描く事で利益を得る事を絶対条件に設定しているからこそ、重荷に感じているという事ですか?

その通り!あなたは成功しなければならない、絵を描く人生にはそれしかないと思いつめ、人生の楽しみの一つでもある絵を描く事を、単なる仕事の一つにしてしまった。今のあなたは絵を描く事を「しなければならない作業」と認識している。だから絵を描く気になれないのだ。あなたは絵を仕事と思う事を止めれば良い。

仕事にしようと思う事を止めるという事は、完全に趣味の一つにしろという事ですか?

そうではないが、今はそうした方が良いかも知れないね。天職というものはあなたが思うような表れ方をするとは限らないからね。前にもこのblogで書いただろう?

そうですね。

あなたが探している答えは、大体は既にこのblog内に書いてあるよ。あなたは既に私と繋がっており、あなたの中に答えを探し出す事を心得ている。本当はこのような対話ももういらないのだがね。まあ、君の好みだから良いけど。

対話しなくても大丈夫なんですか?

勿論。だが対話をしてはならないという訳ではないし、対話形式があなたのインスピレーションを上手く引き出すと思うのならばそうしなさい。私とコミュニケーションする方法は無限にある。

そうですね。対話で見えて来るものがあると思いますので、しばらく続けたいと思います。絵に関しては、今は利害を完全に忘れて最高の趣味として楽しむ事を考えて制作すれば良いのですね。

その通り。あなたは趣味を生きる人間だ。趣味が自然と仕事になる人生を歩んでいる。あなたの考える通り、あなたの人生は楽しみから生まれる。しばらくは生計を立てる為に副業をしなければならない状態が続くだろうが、ちゃんと天職へと道は繋がっている。心配はいらない。

本当ですか?この点に関しては自分の単なる妄想じゃないかと不安なんですが。神様のインスピレーションに自分の欲から出た妄想が入り込んでませんか?

その疑う姿勢は素晴らしい。そんなに疑問に感じるならば実践してみれば良い。私の口車に乗って、失敗してみてはどうかな?失敗から学ぶ事は多い。まあとにかく、実際に生きてみればわかるさ。それが人生だ。

正解かどうかは仰らないんですね。

だって、結末のわかった推理小説ほどつまらないものはないからね。人生もまた然り。

では今回の問題にも答えは出ないのですか?

答えを出すのは最初からあなただと決まっているよ。昨日も言った通り、答えはあなたが作るものだ。あなたが良いと思った事をしなさい。人から進められて嫌々ながらするよりも何倍もの収穫があるだろう。あなたは楽しい事を徹底的に行なう人生を選んだのだろう?では徹底的に行ないなさい。それが答えだ。

楽しい事を行なうにも、ある程度堅実にお金をためて行かないと、行ないたくても行えません。そこで楽しく出来てそれが収入に繋がるものを探して来ましたが、なかなかありません。例えあっても、大抵の場合儲からない仕事だったりします。収入に繋げようとしたら途端にしんどくなりますし。そうなると何も出来ない事になります。

儲けなければならないという意識が強過ぎるんだよ。結果を求め過ぎて、結果が逃げてしまうんだ。あなたは充分に真面目だ。享楽主義に陥る事はまずない。だから心配せず、楽しむ事に励みなさい。趣味を楽しみなさい。いつか仕事に繋がる。焦っても未来は近付かない。楽しむ事があなたの使命だ。その手段の最高のものが、絵を描くという行為だ。成功に執着してはいけないよ。楽しまなきゃ意味がない。そこから周りの人々が、幸せはどこから来るのかを知る事になるんだ。平和はどこにあるのかをあなたの絵から知る事になる。それがあなたの使命。あなたは絵を通して愛と平和の使者となる。本当だよ。

素晴らしいですね。きっとそうなりたいです。私は楽しむ事を最大の目的にして生きていれば良いという事でしょうか?

魂の底から徹底的に楽しむ事だよ。これがあなたの使命の一つ。あなたのこの人生での課題でもある。積極的に楽しむ事はそれほど得意ではないだろう?

まあ程々には楽しんでいると思いますけど、積極的ではないでしょうね。積極性は確かにもっと身に付けたいです。

いかに魂の底から徹底的に楽しむ事が出来るかどうか、いかに心を開き楽しみ尽す事が出来るか、…楽しむ事は今を生きる事でもある。あらゆるしがらみを捨てて、純粋にその行為に興じる事、その状況を純粋に味わい尽す事、これが悟りというものだ。厳しい修行でも悟れるが、結局は心の問題だ。楽しい方が良いに決まっている。そうだろう?だからあなたはこの人生を選んだ。思う存分楽しみなさい。

有り難うございます。では利害を気にせず、いかに楽しむかを基準にして生きて行こうと思います。

そう、それでいい。あなたは喜びの使者だ。くよくよ悩んでいる場合ではない。必要なものは私が全て与える。不足という幻想を捨てなさい。しなければならない事は何もない。正解はあなたが作るものだ。あなたが思うまま、感じるままに生きるのが正解だ。どんな時にも楽しみや喜びの種はある。笑って立ち上がりなさい。あなたはただ絵を楽しみなさい。絵の完成度も大した問題ではない。妥協したくないのはわかるが、上手下手を気にし過ぎてもつまらない。その場のノリも大事だ。まず楽しみなさい。人生の細かいあれこれを考えるのはそれからだ。

今日はこんな所で良いんじゃないかな?

そうですね。有り難うございます。

君は充分に答えを知っている。この事を忘れずにいなさい。それではお休み。

はい、お休みなさい。

Posted by ガスパーチョ at 23:53 | Comments (2) | TrackBack

2006年03月15日

習慣を直す

あなたはテレビが大好きだね。特に夜中に放送される類いの番組が。

ええ、それで困っています。今もテレビを幾つか見ていました。バラエティーからドキュメントまで、幅広く見てますね。何となくテレビをつけて、そのまま見てしまい、真夜中になってしまいます。

そう、そうやって過ごしてしまうのがくせになっているんだね。確かに面白い番組が沢山ある。雑学から世の中の問題まで、ありとあらゆる知的好奇心をそそるものが放送されている。確かに多くの情報を得られるが、失う時間もまた多いという事で悩んでいるね。

そうなんです。癖になってしまっている事が問題なんです。本当に見たいものだけを見れば時間も節約出来るのに、長年の癖でどうもテレビを見てしまいます。

おやおや、早速過去を生きている症状が表われているね。癖というものは、気付いた時点で止める事が出来るものだ。続いてしまうのは、気付いた事をしばらく経つと忘れてしまうからだ。あなたは小さい頃から虐められっぱなしで友達も少なく、とても内気だった。自然にテレビばかり見るようにもなるさ。そう、テレビだけでなく、あなたはあらゆる状況で見る事をして来た。あなたの性質にも合っていた行動だから、あなたはテレビを見る事に親しみを感じている。だからなかなかやめられない。

そうですね。私は人と関わる事を恐れ、昔からいつもぼんやりと見ている事が多いです。テレビが自分の性質に馴染んだものだという見方は今まで思いつきませんでした。気付いている内は簡単にやめられますが、忘れると戻ってしまいます。忘れないようにするにはどうすれば良いのでしょう?なるべく見たいものだけを見る為にビデオに録画したりしても、絶対に見たいものはどうしても録画しながら見てしまいますし、ビデオは溜まって行く一方。

そう、あなたが絶対的に望むものはどうしても時間を割き、自分で手に入れる。だがある程度興味のあるものは見るし録画も出来るが、録画してもなかなか見ないだろう。

はい。

問題はそこだ。ある程度興味のあるものと、絶対に見たくなるものとの区別をどうつけるか。簡単な事だ。テレビなんて興味ないと宣言したら良い。

しかしそうすると見るべきものが見れなくなりますよ。

私は言ったはずだ。しなければならない事は何もない。あなたの好みの分野で絶対に欲しい情報がテレビで手に入るならば、それに関する情報がどこかからあなたの元へと飛び込んで来るだろう。人間の想念の力とはそれほど強いものなんだよ。

なるほど。

それとも神である私があなたの求めるものを与えないとでも思っているのかい?ネットの情報もそうだ。あなたは必死になってサイトを彷徨い、数々の情報を手に入れているが、本当に必要な情報は、その中にどれだけあるのだろうね。

沢山ありますよ。あり過ぎて困ってしまいます。社会問題は山積みで、世界ではいっこうに戦争がなくならないし、おかしな事件もどんどん発生してます。変な法律案も通りそうになったり、不正はうやむやのまま隠されたり…。しかもそれを知らない人は世の中に沢山いて、気付かない内に人が苦しむ事になっていたりもします。こんな情報を埋もれたままにしておくのはいけません。

で、あなたは何をしているのだい?

ブログで情報を発したりパロディを作ったりしています。あとは裁判の原告団に加わったり…、尤もこのような事をする前は自分自身が社会の真の現状を理解する為に、情報を集め始めたのがきっかけですが。

では、当初の目的は達成されたんだね?

はい。

ならば大体の現状が把握出来たのだから、情報集めはもう良いだろう。あとはもっと具体的な行動に移りなさい。裁判の原告団だろうがデモ行進だろうがパロディだろうが何でもやりなさい。もう必要な情報は揃っている。しかも必要な情報は自然に手に入る。私が保証しよう。あなたの問題はそこにはない。ネット上の情報集めにも時間を割き過ぎるのでも困っているのだろう。テレビの事と一緒で、問題はあなたがネットサーフィンを好むが為に実生活に支障を来しているという事だ。ならばネットも興味がないと宣言しなさい。

うう…、そうなんですよね、好きなんです。私の場合、タバコの代わりにネットが好きなのでしょうかねぇ。わかっちゃいるけどやめられない感じです。

あなたは頑張り屋だし、それは評価出来るのだが、力の配分が苦手だね。頑張り屋さんは特に、不足を恐れる傾向が強い。あなたは自分を空っぽだと思い、とにかく満たそうとする。だが空っぽなのは幻想だ。空っぽだと考えているのは、あなたの頭脳だ。実際には、心はいつも満たされているのだ。ただあなたはそれに気付かない。だから知的好奇心を頭脳に満たそうとする。心を知識で埋めないと不安で仕方がない。だからやめられない。だから宣言する事に抵抗感を抱く。

そうです。私はマニュアルを結構気にしますね。知らない事を恐れるというのもありますが、正解・不正解を気にする事が結構昔からありますね。

そこだ。あなたの最大の問題が表われた。あなたは正しい事を求め続けてここまで来た。不正解や悪であることを恐れていた。その為にマニュアルや答案を求めてしまう。人生の答案を求めてあなたはここまで来たが、先に言っておこう。ここにも答案はないよ。答えはあなた自身だ。

ええ、その事は今までの人生や知識・経験で大分わかって来ました。そうですか、正解を気にする性質が、こんな所にも影響を与えていたんですね。

そうだ。あなたの問題の多くがこの信念から発されている。あなたは善悪の評価を恐れている。悪いと罰せられるからだ。罰とはあなたを否定する事だ。だがそんなものは幻想だ。それはもう知ってるね?

はい。でも未だにその信念が消えないで残っているようです。

そう簡単には行かないだろう。あなたはまだ今を完全に生きている訳ではないし、自分自身を完全に把握してもいないだろう?焦らずゆっくり行こうじゃないか。当初の質問に戻ろう。あなたはテレビもネットも時間がかかり過ぎて困っている。その原因として、情報を集めないと気が済まない事、その根本には正解や正義を求める心がある事、罰を恐れる事が挙げられる。改善策は好みを変える宣言を行なう事を挙げた。あとはもっと優先したい好みは何かを宣言し、時間を割くよう心掛ける事だ。そして、正解は求めるのではなく、自分から生み出すのだという事を思い出しなさい。幾ら情報を求めても、そこには正解はないよ。あなたの中にあなたの求めるものがある。問題を生み出しているのはあなたなのだから。

そうですね。ようやく最近になってこの事がわかり始めて来たような気がしています。習慣を直すにも、外の状況を直すにも、自分の中から変わらないと変えられないんですね。宣言はいつやるのが良いでしょう?

毎朝行なうと良い。テレビを見そうになったりネットで時間をかけ始めたなと思った時に宣言し直しなさい。本気で直したいのなら、そうしなさい。効果があるよ。

はい、そうします。…ところで、今回の対談はこんなに長くて良いのですか?

それはあなた次第だ。私はいっこうに構わないよ。あなたの理解しやすいように話を進めているし、あなたの心を解きほぐしやすいように話を進めている。まあ、これだけ自分の事を話せるのだから、かなり解きほぐれているけどね。でも私と話すなら、もっと解きほぐさないとね。

自分の話題とは言え、これだけ個人的な話題をだらだらと続けて良いものでしょうか?

あえてやっているんだよ。あなたの為に。もっと自由になりなさい。醜態をさらせとは言わない。より良い対話をする為に、あなたには柔軟な心でいてもらいたい。だからあなたの心の中でこびりついた感情などを出さなければならない場合もある。これもその一環だよ。あなたはかなり解きほぐれているから安心しなさい。

ありがとうございます。では今日はこの辺りで終わりたいと思います。

そうかい、話せて楽しかったよ。

私もです。今後とも宜しく御願い致します。

ああ、お休み。

Posted by ガスパーチョ at 23:54 | Comments (0) | TrackBack

2006年03月14日

対話を始めてみる

あなたと神は元々一体であり、分離してはいない。だがあなたが指人形を使って物語を演じさせるように、私はあなたで物語を紡いでいる。あなたが望むならばあなたと対話しよう。その為にはあなたも神と対話出来るという事実を素直に受け入れてもらいたい。あなたはそろそろこのblogに変化をもたらしたいと考えているね?

その通りです。私一人で神様の語る事を頭の中でイメージして書くようにして来ましたが、自分だけで考えるというイメージが頭にあるせいか、なかなかネタが思い浮かびません(笑)。一方友人と対話する場合は思わぬ話題が相手から振られたりもしますので、神様のキャラクターをはっきり提示する対話形式の方が自分の思いつかないような話題も出て来るのではないかと思う訳です。

つまりあなたは私を呼び出して人形劇をするつもりだね?

平たく言えばそうなりますかね…。ニール・ドナルド・ウォルシュ氏の著書『神との対話』がきっかけでこのblogを始めたようなものですから。今までは自分の心の奥底の神様の領域に繋がる為に自分の中の偉大な言葉を意識的に引き出す事をして来ました。

よく知っている。あなたは良く頑張って来た。私が演じているのだから当然と言えば当然かも知れないな。…冗談はさておき、あなたの意図はわかった。あなたはある程度私の領域に繋がる事が出来るようになって来た。そこでそろそろ本番といきたいのだね?

ええ、まだ不完全かも知れませんが、大分慣れて来ましたので、私をもっと客観的に捉えてより深く探る事が出来るかも知れない対話形式でいきたいと思っています。今までの人生でも人付き合いは得意ではなかったのですが、これが会話の上達にも繋がればと思います。

君は良い先生を選んだ。私は全てだ。全てであるから世界の統べ手だと呼ばれている。私は全ての中の最高のものを引き出す事が出来る。そしてあなたの事は何でも知っている。何しろ私はあなたなのだから。私でどんどん練習しなさい。人生相談は神様に任せなさい。

ありがとうございます。ただこの対話形式には多少問題がありますね。

何が問題なの?

今までのようにまとめずに書くので、文章が長くなる点です。書くのに時間もかかりますし。

それは問題ではないよ。あなたは完璧主義な所がある。まとめようとしてあれこれ考え、文体を統一し、ページに納まるかどうか心配しながら悩み、そうこうしている内に疲れて気分転換にサイトをいろいろ閲覧したりして、結局時間がかかっている。時間がかかったり文章が長くなる事はそれほど気にする問題ではないよ。

逆に対話形式の方があなたには合っているかも知れない。私が好き勝手に話すのだから文体を気にしたりまとめたりする必要もない。むしろ私が本当に神様ならば、完璧な文章を生み出してくれるに違いないと思わないか?

なるほど、言われてみればそうですね。

心配する事はない。私に任せなさい。何てったって神様なんだから。あなたは文章が長くなる事を心配しているようだから、今日はこの辺でやめようか。夜も遅いしね。

そうですね。では明日は私個人の人生の問題から考えてみようと思います。

おや、あなたは今の人生に不満のようだね。これは大変だ。でも大丈夫。私がついている。全ての人間に私がついている。いつでも私に会いに来なさい。

…そこのあなたも私に会いに来なさい。ガスパーチョのように、ニールのように、その他様々な神と対話する人々のように忌憚なく私に話しかけなさい。いつでも答えてあげる。尤もその答えは言葉とは限らないがね。

あなたが言葉によるコミュニケーションを求めるのであれば、それに応じよう。メインとなるコミュニケーションのツールを私にしっかり指定してくれれば、そのツールで答えよう。さあ、あなたも挑戦してみなさい。まあ、あなたが求めようが求めまいが、いつでもメッセージはありとあらゆる方法で流しているのだけどね。

…さあ、今日はこの辺にして、続きはまた明日にしようじゃないか。

はい。明日を楽しみにしております。

よろしい。ガチガチに緊張しながらするより、楽しみながら行なう方が良い。ではまた明日。おやすみ。

はい。おやすみなさい。

Posted by ガスパーチョ at 23:59 | Comments (0) | TrackBack

2006年03月13日

行動に見返りは無い

行動に見返りを求めても返って来ない。宗教を信じれば天の恵みが来るとか、助けたのだからお礼の土産ぐらい持って来いだとか、人はなにかと取り引きをしたがる。それは行動をコスト=負担と考え、利害で動こうとしているからだ。どんなに苦労しても思うような結果が出なかったり、人から頼まれた事をしてもその事が全く活かされなかったりという事はよくあるものだ。その時人は怒りで相手を罵倒したり地団駄を踏んだりするが、人間関係=取り引きではないし、行動=商売でもない。行動によって顕われるのはあくまで結果であって、見返りではない事に気付きなさい。あなたが望むものは、行動で得られるのではなく、あなた自身の態度の変化によって得られるのだ。

人は何らかの体験をする為に必要な状況を作る為に行動する。あなたは何かを求めるが故に行動するのだから、それは自発的な意思によると言える。たとえそれが依頼であろうと仕事であろうと命令であろうと、あなたが何らかの状況を体験する為に相手の提案に同意しない限り行動しない。あなたが決断する時には相手の事は関係なく、自分の意思により決断する事になる。

どんな行動であろうと、それはあなたがあなた自身のために決める事だ。たとえ取り引きであろうと、仕事であろうと、究極的には全てあなた自身のためにあなたが行なう事であり、全てはあなたの決断であり、責任である。求める結果に近付ける為に相手と交渉する事は勿論どんどんやれば良いが、相手に怒りをぶつけてもそれは見当違いな反応であり、何の解決にもならない。

あなたの行動は全てあなたの為のものであり、負担となる事はあり得ない。あなたの意にそぐわない状況に遭遇しても、それは結果の一つに過ぎない。それに対して怒るのは、状況の関係者や神様が意地悪をして自分に求めるものを与えてくれないと考えてしまうからだ。さらに言えば、あなたがある結果を求め過ぎて、その他の結果を認めたくないから、周りのせいにして怒るのだ。あるいは自分を責めてしまう。これもまた見当違いな反応であり、何の解決にもならない。

突き詰めれば世の中であなたが怒りをぶつけるべきものは全く存在しない。怒りをぶつける時、あなたは怒りの夢を見ている。あなたはあなたの妄想の中にいる。ただ坦々と検証・修正・改善を重ねて行けば良い。だがあまりに進展がないとイライラするのは仕方がない事だ。人間は目紛しく変化する生き物だから、自分の性質にそぐわないと感じたものは、受け入れるのに抵抗心が湧きやすい。

だがあなたは全てと繋がっている。こんな時は自分の全体性、宇宙との一体感に注意を向け、今この瞬間を意識するよう心掛けると良いだろう。心が宇宙規模であればどんな性質にも適応出来る。そして全ては自分が決断したのだという事を思い出そう。その時あなたは真に原因として行動をする事が出来る。その時結果の為の行動から原因からの行動へと質が変化する。つまり受動的態度から能動的態度へと変化する。

結果の為に行動している限りは結果に苦しむ事になる。自分以外のものに価値を置き、それを自分とは引き離して考えている限り、あなたの心が満たされる事はない。一方原因からの行動をとれば喜んで結果を受け入れる事が出来る。全てを自分のものとし、自分と繋げて考えているから、どんな結果であれあなたの心はいつも満たされている。結果の為の行動=受動的態度の行動はあなたをあなた以外のものにするが、原因からの行動=能動的態度の行動はあなたをあなたの理想に導く。

どんな行動にも見返りは無い。見返りはあなたの態度次第だ。あなたの求めるものは行動ではなく態度で手に入れる事が出来る。あなたは誰からも強制されないし、あなたの決断はあなただけのものだ。結果が幸福をもたらすのではなく、あなたが幸福を受け入れる態度でいればどんな行動をとろうが幸福になるのだ。どんな状況にも怒りを覚える必要はないし、攻撃する必要もない。ただ改善すればそれで良い。

行動しても望む結果を得られず怒ってしまった時は、自分の中に求めているものがある事を思い出しなさい。結果が何かをもたらすのではない。あなたがあなた自身に理想のあなたをもたらす為、あなた自身を変化させる。これが行動の真実だ。行動とは態度の変化から派生したエネルギーの表れ方の一つなのである。あなたがあなた自身を変化させる為に行動しているという事を思い出しなさい。

Posted by ガスパーチョ at 23:59 | Comments (0) | TrackBack

2006年03月12日

敵を敵と思うなかれ

たとえ相手があなたに対して攻撃的あるいは挑戦的であろうとも、あなたが攻撃的・挑戦的になる必要は全くない。警戒する必要さえない(勿論実際に攻撃されたら避けた方が良いに決まっているが)。そもそも相手がそう見えるだけで実は違う意図を持っている事もある。また実際に攻撃的であっても、あなたが同意しなければ攻撃は成立しない。そう、あなたの身に起こる事・体験する事は、全てあなたが同意した事だけなのだ。

あなたが被害者になる事を認めた時点であなたは被害者になる。「攻撃らしきもの」を攻撃と認めた時点であなたは攻撃を受ける事になる。ある状態を認めるとは、その状態を維持する事である。自分を何かであると認めた場合、その定義に自分が従うという意味がある。その状態を過去から引き継ぎ、未来へと保ち続ける宣言である。だから認めない場合にはその状態から簡単に遠ざかる事が出来るが、認めるとなかなか抜け出せない。

では攻撃とは認めないとどうなるのだろうか。相手の「攻撃らしきもの」は「痛烈な訴え」へと変化する。攻撃とは、一番過激な行動を伴った主張である。生物のありとあらゆる行動は全て、物や相手に対するコミュニケーションだ。食べる事は食べ物とのエネルギー循環に関するコミュニケーションであり、同じ種族の相手への行動はその相手への主張である。

大抵の場合攻撃を仕掛けて来る相手にとっては、メッセージさえ伝われば、実の所結果はどうでも良いのだ。相手があなたを殺したい、憎い、消えてしまえ…などと考えていても、それはあなたに関連した何らかの現象・状況・問題を絶対に認めたくないという主張であり、その為に精神的に追い詰められている。何らかの現象・状況・問題を解決すれば、あなたに消えてほしいとは思わなくなる。

たとえ相手が攻撃的でも、あなたは攻撃を受け取る同意をしなくて良い。攻撃に反応する必要はないのだ。過去の情報から危険に怯え、想像してしまうから攻撃に同意してしまうのだ。それは過去からの結果を元にした生き方である。今を生きるならば、このような反応による生き方をせず、行動を自ら創造して行く生き方を選びなさい。今を生きる事で、攻撃を攻撃と思わず冷静に対処する事が出来るのだ。

今この瞬間を生きてこそ、相手の攻撃的・挑戦的態度の真意がわかる。攻撃を止める事が出来る。攻撃を無効化する事が出来る。このような人々が増えれば、戦争も消えてなくなるだろう。敵は、あなたが認めない限り出現しないものである。そもそも全ては繋がって一体であり、全てはあなたであるから、敵という究極の他人など最初から存在しない。キリストが「隣人を愛せ」「敵を愛せ」と語ったのも、まさにこの意味からである。キリストは、相手をあかの他人と認めないで、自分と同じ存在だと認めてはどうかという提案をしていたのである。

もう一度言おう。あなたが認めない限り敵は出現しない。あなたにとって嫌な相手、攻撃的な相手に出会っても、彼らは敵ではない。あなたの反応次第で全く違う存在となる。彼らを敵と認めている時、怖れを抱いている時は、あなたは過去の情報の中を生きている。その時のあなたは悪夢の中を彷徨っている夢遊病患者だ。その事に気付きなさい。そして今を感じなさい。但し、自分を罰してはならない。それでは別の悪夢に入り込むだけだ。ただ夢に気付き、今を感じ直しなさい。全ての繋がりを感じなさい。敵は最初からいない事を知りなさい。隣人も敵も、あなたです。だから、あなたを愛するように彼らを愛する事が出来ます。彼らに敬意を表わす事が出来ます。彼らの姿にあなたを見なさい。心を落ち着かせ、彼らの中にあなたの中にあるのと同じ崇高さ・偉大さを見つけなさい。

Posted by ガスパーチョ at 23:58 | Comments (3) | TrackBack

2006年03月09日

全ての出会いに敬意を

どんなに何気ない出会いであれ、ただ買い物に出かけただけであれ、人と人との出会いには何らかの意味がある。いや、意味はないが、意義がある。つまりあなたに想像出来るような意味がない場合でも、不必要な出会いなどないという事だ。全ては一体であり、あなたでないものは何一つ存在しない。人と出会う場合、どんな人であれ、彼らはあなたのソウルメイトだ。あなたが気付かない世界で守護霊や指導霊達が様々な交流をしている事もある。同じく場所やものに出会う場合も意義があるし、あなたの気付かない世界での交流もある。

どんな人であれ、どんなものや場所であれ、あなたのソウルメイトであるから、敬意を持って接し、その人だけでなく、背後に拡がる彼の宇宙や、目に見えない世界で彼をサポートしている存在にも敬意を持って接すると良いだろう。究極的には相手もあなた自身なのだから。どんな出会いもお互いを助け、喜びを分かち合う為に存在する。全ての出会いに敬意を捧げなさい。

Posted by ガスパーチョ at 23:25 | Comments (0) | TrackBack

2006年03月08日

弱ってもベスト・コンディション

しんどい、だるい、面倒臭い、そんな精神状態だから今日は調子が悪い、…そう思って心や体を労るのは構わない。しかし、そこで無理をしたり力をセーブし過ぎたりする事なく、ごく自然に現在のベストの状態に持って行きたいのならば、「今は調子が悪いから仕方ない」とは考えない方が良いだろう。なぜならそれは、あなたが過去の結果を基準にしており、過去の枠内で考え、行動してしまう事になるからだ。

調子が悪くても、あなたは「始まり」になれる。弱ったように感じるのは過去と比較しているからに他ならない。どんな状態であれ、あなたが原因である限り、現在今この瞬間においては全てベスト・コンディションなのである。弱った状態から始まるストーリーもある。以前と比べて弱った事を気にする必要はない。過去との比較で自分を弱く考えるより、今この瞬間の原因でありなさい。

Posted by ガスパーチョ at 23:53 | Comments (2) | TrackBack

2006年03月07日

カルマ・トラウマ・たった今

前世からのカルマ、家族や友達や仲間とのわだかまり、人生の過去の時点で受けたトラウマ、…そういったものは確かに人生に障害をもたらしたりするし、治療する事で前向きになったり人生が改善されたりする。だが、その治療で得られる教訓は、過去は過去であり、こだわりを捨てて思考の渦から脱し、今この瞬間を自由に充分に味わうだけで良いという事だ。

逆を言えば、今この瞬間を味わえる人間にとっては、過去のトラウマも未来への不安も全く関係ないものだ。今この瞬間を初心で味わえば影響は消え去り、自然と癒される。今を充分に味わえないからこそ、過去を引きずり未来を思い悩む。

人は日々生まれ、死んで行く。眠りとは浅い死だ。一日一日、全く同じ日はない。全く別の人生である。人間が記憶をなくして転生するのは、今この瞬間を改めて味わい直す為だ。人生を経験すればする程一日が短く感じるように、魂が人生を繰り返す内にも新鮮味を感じなくなりがちだ。だからこそ人は記憶をなくして転生する「地球式人生」を選んだ。

今何故に輪廻や魂の話題を人々が気にするのか。それは強制的に記憶を消して一生を過ごす事により、新鮮さの味わい方を充分に理解したと感じているからだ。それを意識的に実勢する段階に来ている。だからこそ悩み多き人生を歩み、実践の為の自覚と実践のチャンスを自らの人生にもたらしている。

どんな道を辿ろうとも最後は必ず、今こそが全ての始まりであり、あなた自身の根源であり、全てのつながりの中心であるという真実に気付く。時間軸を作り、それを区切る事で人は「今」「ありとあらゆる全て」「真の自分」などと呼ばれている真実を理解しようとしているのだ。

カルマやトラウマ探しは心の整理に有効だが、必ずしもしなければならない訳ではない。過去や未来の思考を注目し過ぎて結果に左右されるよりも、あなた自身が原因となる事が出来れば、この時こそあなたはあなたの人生の主人となり、過去も未来もあなたに従い始めるだろう。その為にも意識的に今この瞬間を初心で味わう事が重要なのである。

今を生きればあなたは全ての原因となり、あなたから全てが生まれる。心の奥に思考の嵐で隠されていた財宝が顔を出し、あなたの助けになる。過去のしがらみ、未来への不安から自由になりなさい。最果ての地に冒険に行かなくても、あなたの足下に財宝が転がっているのだから。

あなたが全ての根源だ。だからあなたから思考の嵐が発生し、あなたはその中心にいる。思考の嵐を止めなさい。本当の世界である「今この瞬間」を味わいなさい。カルマもトラウマも、たった今あなたが発生させているのだ。だから、思考の嵐を止めて、「今この瞬間」を味わいなさい。

Posted by ガスパーチョ at 23:52 | Comments (0) | TrackBack

2006年03月06日

人生は思考よりも行動

人生の進め方に困った時、人がとる態度には大きく分けて二つのパターンがある。一つは思い切って動いてみる事。もう一つは慎重に選択肢を選び直す事。どちらも有効だが、どちらも態度によって失敗する。態度がおかしければそれで人生が停滞する危険性は高まる。動くにしても考えるにしても、あなたの思考にどれだけ不安が関わり、どれだけ今この瞬間に意識の焦点を合わているかで、失敗の可能性は変化する。

考えるにしろ行動するにしろ、どちらでも態度は重要だ。但し、その時の自分をいち早く変化させたいのならば、考えるよりも行動すると良いだろう。

大抵の場合、予想した結果にあれこれ価値をつけて考えるから行動が出来ない。だが行動すれば、すぐさま結果が表われる事になる。その結果をあなたは見つめざるを得ない。そこには紛れなき情報が表われる。その結果からあなたは真実を知る事が出来る。この世に行動程確実なものはない。行動から得られる経験、それは物質化・実体化された情報である。成功であれ、失敗であれ、それは貴重な情報だ。だからこそ、失敗を恐れるのはナンセンスなのである。むしろ感謝して然るべきものだ。

また、上手くすれば行動への集中から今この瞬間を意識する状態に移行する事が出来る。勿論慎重に考えている内に移行する事もあるが、行動する時程変化を大きく感じる事は出来ない。人間の心も体も、元々は何の区別もなく繋がっているものだ。頭だけで考えるより、心も体も総動員する行動の方が、それだけ大きな力を発揮出来る。だから、行動する事は、迷って慎重になるよりも優れた結果を招く事が多い。

いずれにしても今この瞬間に集中し、過去や未来の不安に囚われない態度を取り戻す事が肝心だ。迅速な変化を求めるならば、関係あるなしに関わらず(気分転換でも構わない)、何らかの行動をとってみる事をお勧めする。

Posted by ガスパーチョ at 23:53 | Comments (0) | TrackBack

2006年03月04日

だらけと気付き

一度思い通りの生き方や生活スタイルが出来たとしても、すぐに反動でだらけた不健康な生活に陥ってしまう。あなたはその事で焦っているようだが、この揺れは必要なものだ。だから焦る必要はない。これは気付きのプロセスの一環だ。どんな瞬間にどのような思考が発生して今までのだらけた生活が引き起こされるのかを観察する為のものだ。その為に、あなたはだらけやすい状態となっている。

自分を責める必要はない。落ち込む必要もない。もちろんだらける必要もない。ただ気付くだけで良いのだ。焦って観察をやめてはならない。それこそエゴの思う壷だ。ただ気付くだけであなたは大きく変化する。何もする必要はない。ただ気付く事、これが大事だ。気付く姿勢を維持する事がポイントだ。誠実に今を生きようとし、思考者ではなく観察者である事、そして自分の人生・プロセスと自分自身を信じる事。これが気付きの姿勢だ。

Posted by ガスパーチョ at 15:35 | Comments (0) | TrackBack

2006年03月01日

人生は行動よりも態度

人生の停滞と進展・充実度について考える時、あなたは行動が伴うかどうかを基準に考えてしまうようだが、それはあまり正確な理解ではない。人生を進展させるには、必ずしも行動を伴う必要はない。人生をいかに体験するかが鍵なのだ。あなたが体を動かせない状態で言葉も喋れなければ、人生を進展出来ない訳ではなかろう。行動しようがしまいが、それは大した問題ではない。あなたがその状況をどう体験し、どう味わうかにかかっている。つまりあなたの状況に対する態度が重要なのである。

幾ら行動しようが、無関心で嫌々ながら生きていては、ほとんど何も進展しない。それはあなたが変化する気がなく、結果を消費するだけの存在に留まっているからだ。周囲にほとんど変化がなくても、あなたが自由に変化して、積極的に向き合うならば、そこから新たな発見や発明は限り無く発生する。その状態はあなたがこの世界における原因である事を示している。

あなたは変化する存在だ。世界の全ても変化する。実際には停滞など存在しない。だから動かずとも、人生は進展し得る。確かに行動はあなたの積極性を計る基準になり易いが、この基準だけが絶対なのではない。例えあなたが道端の小石でも、存在する事に積極的ならば、下手に動いてばかりの人間よりも充実した一生になるかも知れない。あなたが何を成し遂げるかが問題なのではない。どのような態度で体験するかが問題なのだ。

Posted by ガスパーチョ at 23:59 | Comments (2) | TrackBack